しかし、19世紀に入り、誰もが学校に行ける公教育制度が始まってはじめて、一般人が無理なく聖書を読み書きできるようになりました。ブラザレンは、この公教育の始まり時を一にして、拡大していきます。ブラザレンは、公教育制度なしには成立しない運動でした。
ことのよしあしは別として、グローブスにしても、ダービーにしても、第1世代のブラザレンの指導者たちは、神学校で教育を受けたエリートでしたが、第2世代では、そうでない人たち、特に公教育だけしか受けていない人たちが、主役になり始めます。
特に、ダービーが既存の神学校教育を受けた牧師、あるいは司祭制度を批判したこともあり、その牧師の養成機関でもあった大学(オックスフォードも、ケンブリッジも神学校、神学部が母体)教育に批判的なこともあり、ブラザレンでは、高等教育の必要性は非常に軽視されました。
「神学校では 何から教え始めなければいけないのか?」
神学校の講師になって まだ数ヶ月ですが
この問いは 先生方との交わりの中で
しばしば 話題に上がります
日本のほとんどの神学校では
高校を卒業していることが
受験資格として掲げられていますので
読み書きが 全く出来ない方が
入学してくることは ほぼ ありません
けれども
本を読みこなし
文書を書き上げ
議論を組み立てる能力という面では
準備が不足している学生は
少なくありません
何を隠そう 私自身も そうでした
それは 個人の資質の問題もありますが
日本の学校教育の課題とも言えます
ただ 教育機関を 非難したところで
何も始まりませんので
結局
学び方を一から教えていく必要があります
当然 そのためには
手間と時間がかかりますので
授業で取り扱える事柄は
その分 減らさなくてはいけません
また 一方で
「何処まで 到達すべきか?」
ということも課題になります
例えば
海外(北米?)の神学校では
ヘブライ語が必修ではない学校が
珍しくないそうです
日常の牧会活動のために
ヘブライ語の知識は
必要不可欠ではない
という判断がなされているのでしょう
その判断の是非について論じるつもりはありませんが
クリスチャン人口が1%を切る日本のキリスト教界の中で
ヘブライ語を必須科目とすべきかは
当然 論じられべきことだと思います
ただ 反面
人数が少ないからこそ
語学の訓練が必要だ とも言うこともできるでしょう
国内で 聖書翻訳を継続的に行っていくためには
人材を確保していかなければいけません
そして
そのためには 後進の育成にあたる教師も
育てなければいけないでしょう
ですから
少数だからこそ精鋭とすべき
と 考えることもできるのです
しかし
はっきり言って
私には「精鋭」は育てられません笑
私自身が 学びが不十分な「凡人」だからです
もちろん
それは 私個人の課題です
けれども
広く福音派の神学校を見渡してみても
現状は 厳しいものがあります
というのも
神学校教師の7割以上の方は
教会を牧会しながら
教育に携わっておられるからです
そのため
圧倒的に時間的な制約があります
もちろん
牧会者から学ぶことができることには
現場の空気感を味わえるという大きなメリットもあります
しかし
やはり 一人の神学生にかけられる労力と時間は
限られてしまいます
このように
基礎学力のボトムアップを視野に入れつつ
学問的に牽引していく人材も育成していく
という 大きなジレンマを抱えた課題をこなしていくためには
明らかに人員が 不足しているのです
そのような現状の中で
各神学校は奮闘するしているわけですが
当然 偏りが出ますし
足りない部分も生じてきます
その辺りは
神学生本人と教会が補っていくしかない...のですが
卒業生が教会で問題を起こしますと
「神学校は一体 何をやっているんだ?」
と しばしば 批判されてしまいます
そして
極端な場合には
「神学校不要論」まで 主張されるようになります
たしかに
神学校も人間の営みですので
常に 歪みを抱えています
そして
先ほど述べたような限界と葛藤もあります
ですから
神学校も絶えず修正を受け
成長し続けなければいけません
けれども
その変化を待つのには 忍耐が必要ですので
神学校は「不要」と切り捨てることも
選択肢としては ありうるでしょう
ただ
その場合は
神学校が担っていた部分を
全て自前で 何とかしなくてはいけません
ギリシヤ語、ヘブライ語のような聖書語学は
後回しに(無視?)出来たとしても
少なくとも異端の識別と対処の仕方については
訓練しなくてはいけません
しかし
2000年間のキリスト教界の戦いの歴史を振り返る時に
真理の柱に立ち続けることは
それほど容易ではないと痛感させられます
群の指導者には
物事を判別をするために
相当の訓練が必要です
ですから
短期的な結果だけを見て
「いる」「いらない」と安易に判断するよりも
長期的に どのような協力関係が可能を
論じていく方が 現実的ではないかと
個人的には思っています
人も時間も お金も 限られているからこそ
委ねられている「集合知」を活かしていく方向に進んでいければ
どれほど幸いなことでしょうか?
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