ブルースは
ブレザレンの日常の実践について
以下のように記していました
They observe the Lord's Supper every Sunday morning (and occasionally at other times), and hold that the Lord's Table is for all the Lord's people. This, in fact, is their most distinctive gathering. When they meet for communion, together with any Christians who care to join them for this occasion, their devotions are conducted by no presiding minister and follow no prearranged sequence, but are marked nevertheless by a reverent spontaneity and orderliness. Various brethren contribute to the worship by suggesting hymns to be sung, by leading the congregation in prayer and thanks giving, or by reading and expounding a passage from the Bible.
私訳
彼ら(ブレザレン)は、毎週日曜日の朝に(そして、時々他の時にも)「主の晩餐」を、守っています。そして、その「主の食卓」は、全ての主の民のためのものであると考えています。実際のところ、これはブレザレンの最も特徴的な集まりです。その場に加わりたいと願うあらゆるクリスチャンと共に、聖餐式(パン裂き)のために集まる時、彼らの献身(礼拝)は、特定の聖職者によって執り行われず、事前に決められた順序にも従いません。しかし、それにもかかわらず敬虔な自発性と秩序が、顕著に見られます。個々の兄弟が、歌う賛美を提案したり、祈りと感謝をささげて会衆を導いたり、聖書を読んで説明したりすることによって、礼拝に貢献しています。
彼は
この形式の自由さを 評価しています
しかし
ブルースは
これが 初代教会から連綿と受け継がれてきたスタイルだとは
考えていなかったようです
ブレザレン運動の起こりについて
彼は このように述べています
The Brethren movement originated around the year 1825, although the Brethren commonly insist that their roots are really in the apostolic age, for they aim as far as possible at maintaining the simple and flexible church order of New Testament times.
私訳(説明訳)
ブレザレンの中では、自分たちのルーツは使徒時代にあるという主張が一般的です。それ故に、彼らは新約聖書時代のシンプルで柔軟な教会秩序を、可能な限り維持することを目指しています。しかし、実際にはブレザレン運動は、1825年あたりに起源があります。
彼は初代教会とブレザレン運動の 直接的な結びつきを認めてはいません
それでは
そのブルースは
初代教会の「実践」を
どのように捉えていたのでしょうか?
彼の記した『初代キリスト教の歴史』には
このように記されています
(幸い邦訳書があります!)
ナザレ人たち(クリスチャン)は、共同の食事のために日々、お互の家々に集まった。その食事においてパンとブドウ酒をわかち合い、感謝をもってイエスを想起した。これらの集まりにおいては、また、イエスと一緒にいた弟子たちが、イエスの思い出を語り、イエスの教訓をとおして、他の人たちを教えた。彼らは、メシヤにおいて成し遂げられた神の御業の、よい音信を、ほかの市民に向かって公に述べ伝えた。この新しい共同体への加入は、「主イエスの御名に」バプテスマされる厳かな礼典によって行われた。このバプテスマは、加入したものをイエスの御民として受け入れるしるしである。彼らは自分たちの中で祈りのための集会を持ったし、また、宮において、定めの祈りの時を守った。ごく初期において彼らは財産を均等配分していた、そして、必要あるものが、その共同の基金の中から支給を受けたのである。
『初代キリスト教の歴史』pp.137-8より
この記述において 興味深いのは
ブルースが
「共同の食事」という表現を
用いていることです
(原文ではどうなっているのかわかりませんが…)
彼は
パンとブドウ酒は
食事において 分かち合われた
と 語っているのです
このことは
あたりまえと言えば あたりまえのことですが
見落とされがちなのではないかと 思います
現代の多くの教会において
パン裂き、聖餐は
食事からは 独立した儀式と見なされています
そして
そのあり方に異を唱える意見も
あまり聞きません
しかし
初代教会においては
このような「パン裂き」の持ち方は
ポピュラーなものではありませんでした
(少なくとも 聖書自身には そのような記述は見当たりません)
H・O・オールドという学者は
初代教会のパン裂きについて次のように述べています
初代キリスト教による聖餐は過越の祭りにとてもよく似た礼拝形式においてなされていた。主の晩餐は過越の食事のように契約の食事である。しかし、死から命へと移されたことの祝いとして、また、終わりの日の天的な祝宴の預言的なしるしとして、甦られたキリストと共にあずかる食事であった。
『改革派教会の礼拝』p.206より
繰り返し「食事」と言われているように
「主の晩餐」は
あくまで 共食だったのです
また
ここで
オールドが用いている「契約の食事」という言葉は
重要な意義を持っています
この表現からは
出エジプト記24:1-11の御言葉が
思い出されます
主はモーセに言われた。
「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」
モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。
「主の言われたことはすべて行います。」
モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。
「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。
「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」
それからモーセとアロン、 ナダブとアビフ、 それにイスラエルの長老七十人は登って行った。彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。
ここは 神様とイスラエルの間で
いわゆるシナイ契約と呼ばれるものが結ばれた場面ですが
その締結のしるしとして
長老たちは 会食をしました
同じような食事は
ソロモンの神殿奉献の際にも(Ⅰ列8:65-66参照)
また
捕囚後に聖書が朗読がなされた後にも(ネヘ8:9-11参照)
もたれていたものでした
聖書の世界において
食事は
神様との契約関係を表す大切なシンボルだったのです
また
同時に 食事は 民の共生の象徴でもありました
オールドは
初期の教会においてパン裂きが果たしていた役割について
次のように述べています
サクラメントはすでに執事的な意義を持っていた。食事は、貧しい人、寡婦、飢えた人と分かち合わなければならなかった。それは貧しい者たちに対して関心を持っていることのしるしであった。
『改革派教会の礼拝』p.207より
このように
パン裂きが 文字通り パン裂き
パン(食事)を分かち合うことであったのには
それなりの意味があったのです
この「パン裂き」が
より儀式的な形に変わっていった経緯について
ウィリアム・ウィリモンという学者は
こう述べています
多くの学者たちは、教会の最初期の時代において、キリスト教徒はユダヤ教の食事の際の祝福に倣う形式で、食事の前後に「祝福の祈り」(ユーカリスティア/ギリシア語で「感謝」の意味)を行なう通常の食事(アガペー?)を祝っていたと信じている。それゆえ、その食事のパターンはユダヤ教の食事の儀式とほとんど同じものであったと思われる。すなわち、(1)パンを取る、(2)神への感謝、(3)パン裂き、(4)パンを配る、(5)
食事の後にワインを取る、(6)神への感謝、そして(7)ワインを与える、という七つの行動によるパターンである。おそらく、異教徒たちがこうしたキリスト教の食事を当時の神秘主義的な諸宗教の儀式的食事と混同したためか、あるいは食事がなんらかのかたちで悪用されたために、こうした食卓の儀式はより体系化され固定化された儀式的な食事となっていき、一方、元来はこうした儀式の最初と最後の感謝の間に行われていた日常的な食事(もしくは「アガペー」)がそこから切り離されて、別々に継承されていったのではないかと考えられている。
『言葉と水とワインとパン』p.41より
はっきりした理由はわかりませんが
様々な事情の故に
パン裂きと食事は
分離されていったのです
その変化を非難するつもりはありません
また
最初期の形式を絶対化する必要もないでしょう
ただ
パン裂きが 本来持っていた豊かさが 表される形を
模索できれば
幸いではないでしょうか?
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