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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

公然たる挑戦

ロシアがウクライナに侵攻してから

私たちの国でも

 「現実的な危機管理」が必要だ

と 叫ばれるようになりました


憲法改正や核武装について

積極的に議論すべきだ

と 声高に主張される方もいます




また

同様の言説は

キリスト教界にも見られます




「安全保障」「平和維持」の問題は

非常に 複雑です


ですから

たしかに「議論」は なされるべきだと思います




ただ

そのような「議論」をする前に

私たちクリスチャンは

まず 聖書の言葉に

耳を傾けなければいけません


 知っているつもりでも

 意外とわかっていないことがある

と 謙遜に認めて

御言葉を

語られた歴史的文脈において

丁寧に聞くのです




例えば

山上の説教のイエス様の御言葉は

戦争の課題を考える時に

「槍玉」に挙げられる箇所の一つではないかと思います


極端な方は

「非現実で 無責任で 平和ボケした教えだ」

と 断じます


また

「これは

 あくまで 弟子の生き方であって

 国家に適用することはできない」

と この箇所を脇に置かれる方もいます




たしかに

無責任であってはいけませんし

クリスチャンの論理に 他者を無理に付き合わせるのも よくありません


また

表面上、平和的に見える方策が

暴力を黙認し 助長することになることも

覚えておかなければならないでしょう




ただ

ここで 改めて 問いたいのは

イエス様の御言葉の意図です


イエス様が教えられたのは

理不尽に

ただただ耐えることなのでしょうか?


ある神学者は

全くそうではない!

と主張しています


少し長くなりますが

イエスと非暴力』という本から引用します


「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ五39)なぜ、右の頬なのでしょうか?
人が誰かの右の頬を殴るためには、どのようにしたらよいのでしょうか? 実際にやってみてください。右利きの世界では、右のこぶしで殴れば、それは相手の左頬に命中します。こぶしで殴る場合、相手の右頬に当てるためには左の手で殴らなければなりません。けれども、当時の社会では、左手は不浄な行為を行なうときにだけ用いられました。クムラン共同体では、左手で何かするジェスチャーをしただけで、共同体からの隔離と十日間の苦行が科せられました。(『死海文書』IQS)右手で殴る場合、右の頬を打つ唯一の方法は、右手の背で殴ることです。そうしますと、ここで私たちが扱っている問題は間違いなく、殴り合いではなく侮辱ということになります。その目的は相手に怪我を負わせることではなく、侮辱を加えること、相手の「立場」に打撃を与えることです。
...中略...
ここで重要となるのは、イエスの聴衆が誰かということです。どの事例においても、イエスの聞き手は、叩いたり、裁判を起こしたり、強制労働を強いたりする側ではありませんでした。むしろ、そうしたことの犠牲者側でした。(「だれかがあなたの右の頬を打つなら、......あなたを訴えて......だれかが、一ミリオン行くように強いるなら......」)イエスの聴衆の中には、こうした酷い侮辱を受け、カーストや階級、人種、性差、年齢、社会的地位といった、ローマによるピラミッド型の支配体制が被らせた非人間的な扱いに対する憎しみを我慢せざるを得なかった人々がいたことでしょう。
それでは、なぜ、すでに侮辱を受けている人々にもう一方の頬を差し出すよう、イエスは説いたのでしょうか? それは、左の頬を向けることは抑圧者から侮辱する力を奪い取るものだからです。反対の頬を相手に向けることは、次のように言うようなものです。「さあ、もう一発どうぞ。あなたの最初のパンチは、意図したようにはいきませんでしたね。あなたにはわたしを侮辱する力はないのです。わたしもあなたと同じ人間です。あなたの地位をもってしても、わたしが人間であることを変えさせることはできません。わたしを見下すことはできないのです。」実に効果的です。
こうした対応は、叩いた側に大変な困難を生じさせます。論理的に言って、その者には何ができるでしょう? 相手の鼻が邪魔をしますので、手の甲で叩くことはできません。だからと言って、左手を使うこともできません。もし、相手をこぶしで殴ったとすれば、それは相手を対等な人間として認めたことになります。手の甲で叩くことのポイントは、カースト制とその制度的な不平等制を強固なものにするところにあります。たとえ、鞭打たれるようイエスが命じたとしても、要点は動かないでしょう。抑圧者は、その意図に反して、この劣位にある者を対等なな人間として見るよう強いられるのです。権力を持つ者が、他者を非人間化する力を剥ぎ取られるのです。こうした対応方法は、無抵抗や臆病の勧めとはまったく対極的であり、公然たる挑戦です。

ウォルター・ウィンク著『イエスと非暴力 第三の道』p.20-22より


このように

ウィンクは

イエス様の言葉は

平和ボケした非現実的な教えではなく

抑圧の真っ只中で示された

(暴力による抵抗でも 非暴力の無抵抗でもない)

第三の選択肢であると述べているのです


また彼は

この5:38-39だけでなく

5:40-42も

同じ線で 捉えなければならないと

論じています




彼の 解釈が 妥当であるかどうかは

吟味が必要ですが

少なくとも

落ち着いて読まなければならい

と 教えられることは確かなことです







恐怖と敵意が蔓延する時代に

私たちクリスチャンがなすべきことは

わかりやすい標的を見つけ出して

叩きのめすことではありません

また

自分の身を守るための わかりやすい解決策を

示すことでもありません


むしろ

人々の意見 権力 思惑が 渦巻く中で

少しでも

イエス様の御心を実現していく道を

模索することです


そのために

イエス様の言葉を 聞き 語り 生きる者と されていきたいものです



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