すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
テサロニケ第一の手紙4:16-17
この箇所は
「キリスト」が「私たち」を迎えに来てくださることを語っているのでしょうか?
それとも
「私たち」が「キリスト」を出迎えることを語っているのでしょうか?
私は 長い間 深く考えることもなく
前者
「キリスト」が「私たち」を迎えに来てくださることを語っている
と 信じ込んでいました
ですから
後者の理解に立つ人がいることを知った時
何か新奇な教えに触れたような気持ちになりました
けれども
その後
続けて 学んでいくうちに
これが 決して 新しい説ではないことが
わかってきました
例えば
私が生まれる(ずっとずっと)前から
集会(教会)の本棚におかれていた『聖書注解』(キリスト者学生会, 1959)には
このように記されています
〈主に会い〉。ギリシア語 eis apantesin tou kyriou. ヘレニズム時代に高官がある都市を訪問(parousia)したとき、おもだった市民が彼を出迎えにでたり、帰りに付き添って帰って来ることをapantesisと呼んだ。マタ二五6、使二八15で同様に用いられている。このように主は、彼の民ー新たによみがえった人々、また生き残っていた人々ーに付き添われて地上にくだって来られる描写がされている。
『聖書注解』p.1082より
この本の原書は1954年出版ですから
60年も前から このような捉え方は
定着していたのです
知らなかったのは
珍説だったからではなく
単純に 私の確認不足のせいでした
このことを通して
改めて
固定概念にとらわれすぎないこと
身近なものに きちんと目を向けることが
大切なんだなと教えられました
この↓聖書プロジェクトの動画を見ながら
そんなことを 思い出しました
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