小説家、漫画家、画家、音楽家、映画監督、お笑い芸人など
自身の創作物によって生計を立てている人には
共通の悩みがあります
それは
「本当に良いと思うもの」を追求するか
それとも
「ウケるもの」を作るのかの狭間で
揺れ動くことです
両者の定義は 流動的ですし
必ずしも 対立するわけではありませんが
葛藤は かなり深刻なものです
採算を度返しして 創作出来るなら
とことん極めていけば良いのでしょうが
やはり生活していかなければいけませんので
売れる必要もあります
けれども
狙いにいって 媚びるようになると
飽きられたり
大切なものを失ったりします
さて
このようなジレンマから
教会の奉仕者も自由ではいられません
特に 特定の教会から固定給を得ていない奉仕者たち
巡回型の説教者たちは
芸術家たちと共通する不安を抱えています
それは
「必要とされなくなったら 収入を得られるなくなる」
という不安です
当人の中で それが言語化されているかどうかにかかわらず
「ウケなければ…」という思いに
晒され続けているのは
間違いありません
しかも
一般の教会で聞けることを語っているだけでは
呼ばれなくなる可能性がありますので
無意識に 差別化をはかろうとしてしまいます
もちろん
御言葉の語り手としての良心
救霊への情熱もありますから
常に 本当に良いものを 追い求めようとします
けれども
「バズらなければ」という思いに
抗うのは 決して 容易ではありません
特に 養うべき家族や
代表を務める団体がある場合は
その葛藤、ジレンマは深まります
しかも
厄介なのは
そのような苦悩が
教会では ほとんど理解されないことです
説教者のことを
素朴にリスペクトしていますので
「売れたい」「安定したい」という思いと闘っているなんて
夢にも思いません
ですから
教会は
無邪気に期待を寄せ続け
自分たちの都合に合わせて
その説教者を呼び続けます
それが
また当の説教者には
プレッシャーになります
そのような状況に身を置き続けると
どうなるでしょうか?
どうしても
感動的なもの
印象に残るもの
対立軸が明確なものを
志向するようになってしまいます
注意をしてくれる先輩がいる場合は
ある程度是正されますが
知名度が上がれば上がるほど
苦言を呈してくれる存在は減っていきます
そうして
一線を超えてしまうと…
手のひらを返すように
教会は 説教者を批判するようになります
「信じていたのに…」
「変わってしまった…」
と
自分たちが 傍観者 もしくは 被害者であるかのように語ります
説教者を贔屓にし
その変容に付き合っていた元シンパの中にも
彼を見限る者が出てきます
すると
説教者は さらに硬化していくのです…
このような現象は
珍しいことではありませんし
私も 他人事ではありません
きっと 米国のテレビ伝道者のスキャンダルの背景には
このような問題もあったのだろうと推測します
システムに 罪を被せるわけにはいきませんし
説教者だけに 責任を負わせるのも違っていると思いますが
何にしても
悲しいことです
SNSの時代は
受け手のリアクションが
ダイレクトに スピーディーに 返ってきますので
さらに過激化するでしょうね...
誰も止められん オレは何者にも
止められん Cause I’m the man 今年も明くる年も
たとえば オマエと すったもんだあって泣かしたって
それがネタになってウタになってNow On Sale
そして 誰もいなくなって涙流したって
それがネタになってウタになって Now On Sale
マボロシ「ネタになってウタになってNOW ON SALE」
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