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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

"the Bible as a unified story that leads to Jesus"が意味するもの

更新日:2021年9月22日



聖書プロジェクトの

ヨハネの黙示録の概観が

アップされてから しばらくして

ある神学生から(間接的に)連絡がありました


何でも

物足りなさと違和感を覚えた

というのです




その神学生は

私と同じように

ディスペンセーション主義(古典的もしくは修正)と

患難期前携挙説を教えられて育った方です


その彼にとっては

今回の動画の内容は

釈然としないものだったそうです


「携挙について一切触れられていないのは いかがなものか?」

「黙示録に至って 急に立場が変わってしまったのか?」

という疑問を

私にぶつけてくれました


その戸惑いは

よく理解できます


私も

ディスペンセーション主義以外は

聖書的ではない

と教えられていましたから

かつての私なら

「聖書プロジェクトも聖書的ではないのか?」と

疑ってしまったことでしょう




ただ

少なくとも言えるのは

聖書的か否かは

そんなに簡単に切り分けられない

ということです


というより

完璧に聖書的なものなど

この世に存在しないのですから

聖書を開きつつ 検証する他ありません




そのためにも

聖書プロジェクトの立場を

確認する必要があります


聖書プロジェクトが

どういう理念に立って

動画を作成しているかは

英語版のページに

はっきりと記されています


"Our mission is to help people experience the Bible as a unified story that leads to Jesus."


イエスへと繋がる一貫した物語として 聖書を体験する


このことを使命としているのです


これは裏返すと

契約期を七つに分割することはない

断絶よりも連続性を強調する

ということです


つまり

(古典的、修正)ディスペンセーション主義には立たない

ということを

もともと鮮明に打ち出しているのです



それでは

ディスペンセーション主義に立つ方は

もう 聖書プロジェクトを見るべではないのでしょうか?


いえ

むしろ

これを対話と成熟のチャンスとすべきだと

思います


異なる意見に触れることは

自分の立ち位置を自覚し

これまでの理解を吟味し 整理するために

不可欠なことだからです




少し 大雑把な言い方をすると

古典的ディスペンセーション主義は

「今 ここ(now here)」に力点を置く神学体系だと思います


それは

現代という意味での「今」でもありますし

「新約時代」という意味での「今」でもあります

(それと「やがて いつか」への関心も強いですね)


もう少し具体的に言うと…

新約聖書の特定の文言と

そこから組み上げられた特定の枠組に合うように

旧新約聖書を読み直そうとしたのが

ディスペンセーション主義だと

言えると思います


それも

現代の学者の前理解に従って です




一方の聖書プロジェクトは

「その時 そこで(then there)」の意図を探ることを

重んじています


特に

創世記に始まる 聖書の流れの中で

各書の関係を意識しながら

読み解いていこうとしています


その理念は

黙示録の概観の解説の中にも

表されています


ユダヤの黙示文学は、象徴的なイメージや数字を通して、メッセージを語ります。これはいつ世界が終わるかについて秘密の暗号めいた預言ではありません。むしろ、ヨハネはこれらの象徴を旧約聖書から引用し、読者が彼が示唆した箇所を調べて、その象徴が何を意味しているのかを知ることを望んでいるのです。また、この書は、ヨハネが初代教会の時代の状況について述べている手紙でもあります。後の時代のクリスチャンにも多くの意味を持つ書ですが、まずはヨハネの時代の場所や人を考慮した歴史的文脈によって読み解かなければなりません。

ヨハネの黙示録を

私たちの語感や常識に則して

読むのではなく

書かれた当時の歴史的文脈によって

読み解く


これは

まさに

「その時 そこで」の 意味を探求する読み方です


ですから

バイブルプロジェクトでは

当時の文学技法にも

心を留めています


黙示録の用語や物語を

私たちの時代の出来事と結びつけたり

「携挙」のような「教え」と調和させようとする前に

黙示文学の性質を考慮した上で

意味を汲み取っていこうとしています

(黙示文学の読み方については 後少しで翻訳されるはずです)




もちろん

「今」に力点を置くこと

「その時」に立とうとすることは

相矛盾することではありません


また

ディスペンセーション主義と聖書プロジェクトの比較は

あくまで傾向を述べているだけですので

絶対的な評価ではありません


ディスペンセーション主義でも

「その時そこで」の意味は大切にされますし

聖書プロジェクトも

「今 ここ」の価値観を持ち込んでいます



ただ

それぞれの強調点や方法論を抑えておくことは

建設的に議論を積み重ねていくために

必要なことだと思います







後少しで

聖書プロジェクトの概観シリーズも

翻訳が完了しますから

これを機に 創世記からヨハネの黙示録まで

見直してみるのも良いかもしれません


前提を理解した上で

見ていくと

きっと辻褄が合ってくるはずです


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