母校の聖書宣教会から届いた通信
その中の「学びの窓」に記されていた「再臨運動」に関する文書が
心に留まりました
内村鑑三、中田重治、木村清松によって始められた「再臨運動」
それから100年の月日が過ぎたようです
その「再臨運動」を振り返って
若井先生は このように記しておられます
日本キリスト教史においても当時の重要出来事として取り上げられることの多い「再臨運動」なのですが、実はキリスト教会全体のこの運動に対する反応は冷ややかなものでした。「再臨」があまりにもセンセーショナルに取り上げられてしまったこと、さらに無教会やホーリネスが、当時の主流の教会からは「傍流」のグループと見られていたことなどが原因として考えられます。せっかく「再臨」が当時の教会内で大きなテーマとなっていたのに、「再臨」そのものに対する聖書理解はあまり深まりませんでした。
「無教会」や「ホーリネス」が
「傍流」だったとは
あまり考えたことはありませんでしたが
でも たしかに その通りなんだろうなと思います
私自身「傍流」の群れで育ちましたから
何が起きても 冷ややかな反応しか受けないというのは
よくわかります
ただ
一つ 腑に落ちなかったのは
最後の一文です
今「再臨運動」は起こらずとも、私たちは再臨の希望に生かされ、神のご計画の中にあって、歴史の方向を指し示す者でありたいと願わされます。
ここに
「今「再臨運動」は起こらずとも」とありますが
本当に そうなのでしょうか?
むしろ
今も「傍流」では
この「再臨」について 盛んに 論じられ
ある種の「運動」に なりつつあるように思います
若井先生が述べておられるように
「再臨についてどのように理解しているかは、
私たちにとっての歴史的な課題である」わけですから
このことについて
共に議論を深め
細々でも 発信するものでありたいものです
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