しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象(別訳 自然界の構成要素)は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます(異本 暴かれます)。
ペテロの手紙第二3:10
国々よ、近づいて聞け。 諸国の民よ、耳を傾けよ。 地とそこに満ちているものよ、聞け。世界とそこから生え出たすべてのものよ。主がすべての国に向かって激しく怒り、そのすべての軍勢(H6635)に向かって憤り、彼らを聖絶し、虐殺されるにまかされたからだ。彼らの殺された者は投げ捨てられ、その死体は悪臭を放ち、山々はその血によって溶ける。天の万象(H6635)は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象(H6635)は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。 「まことに、天でわたしの剣は血に浸されている。見よ。これがエドムの上に、わたしが聖絶すると定めた民の上に下る。」 主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊とやぎの血、雄羊の腎臓の脂肪で。主がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
イザヤ書34:1-6
それゆえ、わたしを待て。 ──主のことば── わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集め、わたしの激しい憤りと燃える怒りを ことごとく彼らに注いで、わたしのさばきを下すからだ。全地は、わたしのねたみの火で 焼き尽くされる。そのとき、わたしは 諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。
ゼパニヤ書3:8-9
聖書プロジェクトのペテロの手紙第二の概観が出ました
いつも通りのクオリティですが
特に 興味深いのは 3:10の解説です
しかし、神の恵みは必ず主の日をもたらすのです。ペテロはここで、神のさばきが下る日を、焼き尽くす炎として描いているイザヤ書とゼパニヤ書の預言的な詩を引用しています。「天は燃え崩れ、ストイケイアは溶け去る」と言っています。これは、ギリシア語で「要素」と理解することができますが、その場合宇宙の物質が溶解していくことを指しているかもしれません。あるいは、天体、つまり「星」を指しているのかもしれません。ペテロが引用したイザヤ書34章では、そう使われていました。この場合、その箇所は、すべてをご覧になる神の前で天が巻きさられることの隠喩と考えられます。だから、ペテロは主の日には、地とそこに満ちるものがすべて明るみに出ると言ったのです。
神の焼き尽くすようなさばきの真の目的は、宇宙の物質を解体することではなく、悪と不正を明るみに出し、取り除き、新しい天と地を創造することなのです。そこは、神の正義と愛と、神と隣人を自分のように愛する人で満ち溢れているのです。
注目したいのは
「神の焼き尽くすようなさばきの真の目的は、宇宙の物質を解体することではなく、...新しい天と地を創造することなのです」
という 説明です
これは
何を言わんとしているのでしょうか?
聖書プロジェクトの製作者は
今の天地は
滅び去り、消え去ってしまうのではなく
再構成されるのだ!
と 伝えたいのでしょう
別の言葉で言うならば
『今は亡き大いなる地球』に示されているような終末観に
彼らは 異議を唱えているのです
今の天地 と 新しい天と地は
全く 断絶しているのではなく
何らかの形で連続性を持っている
このような捉え方は
聞いたことがない! という方も
あるいは いるかもしれません
けれども
イザヤ書34章やゼパニヤ書3章の文脈を見ると
火は 消滅をもたらすものというより
さばきと精錬をもたらすものであることが わかります
また
15年前に出版された『わが故郷、天にあらず』という本にも以下のように記されています
ペテロの手紙は、この世界が消滅するとは教えていない。「今の天と地は、......火に焼かれるためにとっておかれ」と彼が書いたとき、「不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれている」と続けている(七節)。つまり、火によるさばきは、被造物世界全体ではなく、罪人と悪を滅ぼすのだ。
この点をはっきりさせるため、ペテロは、火によるさばきをノアの時代の水によるさばきと比べている。「水により......滅びました」と言われる「当時の世界」(六節)は、洪水の後に消え去ってはいない。滅ぼされた「世界」とは、被造世界全体ではなく、罪人の「世界」だった。神に逆らった罪に満ちた世界が滅ぼされたのだ。しかし、ノアとその家族、動物や鳥は、新しい生活を始めるために救われ、罪が一掃された地上に戻った。洪水は、地の汚れを取り除く時だったのである。火によるさばきもそれに似ている。
ペテロは「天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」と続ける(十節)。ここで比喩として用いられているイメージは、精錬する者の火であり(マラキ三・二-四と比較)、それは新た(カイノス)にされた世界を表す。金属が精錬されるとき、不純物が分離して溶鉱炉の中で焼かれ、最後には輝く純金が炉から出てくる。これが、ペテロの言葉の背後にあるイメージだ。
ポール・マーシャル著『わが故郷、天にあらず』pp.255-6より
私たちの住む地の行く末が
もし このようなものであるなら
私たちの 考え方 や 生き方は
かなり違ったものになることでしょう
果たして
この見方が ふさわしいものなのか
御言葉に基づいて 確かめなくてはいけませんが
調べてみる価値は 十分ありそうです
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