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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

終末が近いしるし?



We repent of our own failures to speak and to act in accordance with justice, and we lament the failures of the Church to teach clearly and to exercise adequate church discipline in these areas. Moreover, we grieve over the inadequate level of discipleship that has made room for this type of behavior among those who self-identify as Christian.

先日、ホイートン大学から 出された声明の一部です


ここには

我々は 正義のために発言し、行動することに失敗した

と 悔恨の意が表されています


誠実な 悔い改めに 尊敬の念を覚えます




同じ ホイートン大学の教授陣が執筆したTheology Questions Everyone Asksという本には

次のようなことが記されています


Q. 〇〇〇は、終末のしるしですか?
A. キリスト教徒の人が、何か今起こっている出来事 ー 選挙の結果とか、自然の大災害とか ー が終末が近いしるしだと言っているのを聞くことはよくあります。でもそうでしょうか? 最もよい答えはおそらく、「はい、そうです」でもあり「いいえ違います」でもあるでしょう。あるいはむしろ、答えは最初に「いいえ」、そしてそう言った後に限り注意深く、「そうです」もあり得ると言ったほうがよいでしょう。
 終末を信じる人たちは何世紀にもわたって悲惨な終末時の予言をしてきました。入念な暦を作って世界の終わりの明確な日にちを宣言した人たちもいます。反キリストは、アレイオスという名の古代の異端や、様々な教皇や、多くの種類の政治的指導者と同一視されてきました。何世紀にもわたって、これらの自信過剰の予言をした人たちは、選んだ日がやってきて過ぎ去ったのを見て、戸惑い、おそらく失望せしてきました。
 聖書は、神が何をやろうとしているのかを人間が正確に知りうると考えるのがそもそも傲慢で間違いだと、しばしば警告しています。終末に関して、イエスは私たちに、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコによる福音書13:32)とさえ言っています。ですからここでは、あれこれの現在の出来事を、私たちが知っているこの世界の終わりと結び付けようとすることへの警告がなされています。イエス自身、父の時の決め方を知らない(少なくとも、この世での彼の生涯の間は知らなかった)のです。もし私たちが、自分はイエスよりも良く知っていると推測するなら、私たちはひどく謙虚さを欠くことになるでしょう。…
中略
…私たちにはいつその時が来るかわかりませんが、だからと言って、現状が無限に何千年も続くとの誤った確信にたって今ここに安んじているのがよいということではありません。むしろその代り、私たちは、気をつけて目を覚まし、熱心に主の帰還を待っているべきなのです。私たちは、いつでも、神の未来はもう少しで見えるところまで来ていると意識して、いつ何時でも王を迎えるかもしれない民のように生きているべきです。そうして私たちは、特定の現在の出来事を「終わりの時」と結びつけることなく、自由に現在の時の苦難を、終末が実際来つつあるしるしと見ることができるでしょう。私たちは来たりつつある神の国を熱心に期待しながら生きているのです。



このことは

今 私たちが 心に留めるべきことでしょう




わからないことを わからないと正直に告白することは

不信仰なことではありません


確実に言えないことを 断言しないことは

妥協的なことではありません


取り除けない不安を 神様にお委ねすることは

無責任ではありません




私たちは 第一人者のふりをする必要はありませんし

自分が 最終的な責任者だと 気負うこともありません


もちろん

御言葉が語っている範囲において

預言者的使命を果たす必要がありますが...




イエス様は

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

と語られました


ここに

私たちの拠り所、希望があります




私たちの「未来予測」や「聖書解釈」に

平安の源が あるわけではありませんし

伝道の突破口があるわけでもありません




神様は

神様の言葉によって

牧会を

宣教をしてくださいます


私たちは しもべとして

イエス様が始められた「終わりの時」を

粛々と 仕えていけば良いのです





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