最近
メッセージの中で
「ユダヤ人は ねたみの故にイエス様を 殺しました」
と 聞くことが 何度かありました
そのことは
子供の頃から
幾度も 聞かされてきたことですが
ふと「何処に書かれているんだろうか?」
と 気になったので...
調べてみました
すると
たしかに ありました↓
ピラトは、彼らがねたみ(G5355)からイエスを引き渡したことを知っていたのである。
マタイの福音書27:18
ピラトは、祭司長たちがねたみ(G5355)からイエスを引き渡したことを、知っていたのである。
マルコの福音書15:10
ただ
たったの2節だけ...
しかも
ここでの主語は ユダヤ人全体というよりも
「祭司長たち」です
そして
福音書には
イエス様を 十字架にかけたユダヤ人のうちに
「ねたみ」が 渦巻いていた
と 記されている箇所は
他にはありません
つまり
「ねたみ」は
パリサイ人、律法学者を含めたユダヤ人たちを 突き動かす 主たる動機だったと
聖書自身は 明言していないのです
(もちろん 彼らのうちに ねたむ思いは働いていたでしょうが...)
それでは
何故 この ねたみが
教会の中で
ことさらに強調されるようになったのでしょうか?
たしかなことは言えません
しかし
使徒の働きのユダヤ人の態度から
「ユダヤ人」=「ねたみにかられた人々」というイメージが 作り上げられていった...
と考えるのは あながち的外れでもないでしょう
そこで、大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たちはみな、ねたみに(G2205)燃えて立ち上がり、
使徒の働き5:17
しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみ(G2205)に燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。
使徒の働き13:45
ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ(G2206)、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。
使徒の働き17:5
ただ
注意しなければいけないのは
ここで「ねたみ」と訳されている言葉の
ニュアンスです
ギリシャ語の辞書には
「ねたみ」という名詞の意味が
次のように記されています
❶intense positive interest in something, zeal, ardor
...
❷intense negative feelings over another's achievement or success, jealousy, envy
...
つまり
この言葉は
ポジティブにも ネガティブに取りうるもので
文脈を考慮して 訳し分けられているのです
例えば
コリント人への手紙第二7:7, 7:11, 9:2, 11:2では
同じ名詞が
「熱意」「熱心」と訳されています
それは
動詞も同様で
「ねたむ」という語は
コリント人への手紙 第一12:31, 14:1, 14:39などでは
「熱心に求める」と訳されています
ちなみに
ギリシャ語訳の旧約聖書を見ますと
ピネハス(民25:11, 25:13)やエリヤ(Ⅰ列19:10, 19:14)も
肯定的な意味で ねたむ者であったことが わかります
加えて
使徒の働き21:20で
ユダヤ人からクリスチャンとなった者を指している「熱心な人たち」(G2207)も
同じ「ねたみ」という言葉から
派生したものです
使徒の働き22:3, ガラテヤ人への手紙1:14では
パウロは自分自身のことを「熱心」であったと振り返っています
このように見ていくと
使徒の働きで
ユダヤ人たちが抱いていた「ねたみ」とは
他者との比較で生まれる「嫉妬」というよりも
彼らなりの 神に対する「熱心」であったと
考えた方が 良さそうです
ローマ人への手紙10:2には
次のようにあります
私は、彼らが神に対して熱心(G2205)であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
これこそが、クリスチャンに敵対していた ユダヤ人たちの姿なのです
また
イエス様は
ヨハネの福音書16:2で
こんな予告をしておられました
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。
使徒の働きでは
このことが 文字通り 成就したのです
ねたみ という 私的な感情ではなく
熱心さ 神への奉仕という 善意によって
キリストのからだを迫害する(使22:7参照)
それが 罪人の現実だと知る時に
心寒くなります...
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