昨日 投稿させていただいた「P・C・クレイギ著『エゼキエル書(DSB)』」に対して
「専門家」からの「マジレス」がありましたので
許可をいただいて、ここに掲載させていただきます
難解なエゼキエル書から
何を学びとることが出来るのかが
わかりやすく記されています(長文ですが...)
エゼキエル書38~39章(その1)
ヨハネの黙示録において、サタンが縛られ、迫害によって殺された者が復活し、主の支配の続く千年の 到来がしるされています(黙示録20:1-6)。しかし、この千年の終わりにサタンがその牢から解き放た れ、最後の戦いを招集し、都を取り囲みます。しかし、天から火が下り、サタンは簡単に焼き尽くされま す(20:7-9)。この最後の戦いの時にサタンによって惑わされ、戦いのために招集されるのが「ゴグとマ ゴク」です(20:8)。彼らがどのような存在であるのかについては、黙示録は何も記していません。しか し、エゼキエル書38~39章に「マゴクの地のゴグ」という王が登場します(エゼキエル38:2)。実は、黙 示録の幻は、ダニエル書を下敷きにしていますが、ゴグとマゴクに関しては、エゼキエル書によっていま す。そこで、二回にわたって、終末と深い関わりのある「マゴクの地のゴグ」について、エゼキエル書 38~39章から考えてみましょう。
I. イスラエルに敵対するように送られるゴグ(38:1-13)
ゴグは何ものでしょうか。紀元前七世紀前半に小アジア(現トルコ)に「ギゴス(グル)」という名の王がいたと言われています。「メシェク」と「トバル」は共に小アジア北方の国で、創世記10:2にヤベテの子孫としてマゴグと共に列挙されています。ですから、「メシェクとトバルの大首長であるマゴクの地の ゴグ」(エゼキエル38:2)とは、イスラエルの北方の遠くから襲撃してくる野蛮で、残忍な民、イスラエルの敵と考えることができるでしょう。更に、ゴグと同盟を結ぶのが、ペルシヤ、クシュ(エチオピア)、プテ(リビア)、ゴメル(ウクライナの民、創世記10:2-3参照)、さらにベテ・トガルマ(小アジ ア、創世記10:3参照)です(エゼキエル38:5-6)。イスラエルの北方のみならず、南方からも、数多くの軍隊が同盟を結んで、出陣してきます。嵐のように、地をおおう雲のように、暴風のような多くの国々の民が押し寄せてきます(38:9)。 彼らはどの国に戦いを挑んでいるのでしょうか。それはイスラエルです。しかし、平常のイスラエルで はありません。バビロン捕囚に代表される神の厳粛な裁きのゆえに訪れた「剣の災害から立ち直り」、捕 囚のゆえに散らされた「多くの国々の民の中から集められ」、さばきにゆえに「久しく廃虚であったイスラエルの山々に住んでいる」民です(38:8)。つまり、捕囚からの回復を迎え、新しく創造され、主と共に歩んでいる新しいイスラエルです。主による回復を経験している彼らはみな「安心して」住んでいます。 どのような敵の来襲も恐れてはいません。さらに、回復されたイスラエルは、ほぼ無防備な姿で、城壁も かんぬきも門もない所に住んでいます(38:11)。そして、家畜も財産を持っています(38:12)。財産を多く持ち、無防備な国イスラエルを大勢で襲撃するゴグの目的は明白です。豊かな富を獲物としてかすめ 奪うためです。ゴグと多国籍軍の侵略の背後には二つの存在がいます。まず、「シェバやデダンやタルシシュの商人たち」(38:13)です。これらの国々は地中海沿岸のツロとの交易で栄えていました。今も昔も、戦争の背後には大商人がいます。彼らの目的は、戦争によってゴグと多国籍軍が奪い取ったものを買い取り、それによって儲けを得る事です。しかし、ゴグと多国籍軍による侵攻の背後にはもう一つの存在があります。それはイスラエルの神である主です。38:4に「わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あな たとあなたの全軍勢を出陣させる」とあります。ゴグは確かに自らの利益のため、さらには大商人の思惑に乗って、イスラエルに攻撃を仕掛けようとしています。しかし、全世界の本当の主権者である主が、その背後で、歴史を導いておられます。
II. ゴグを通して聖なることを示す主(38:14-23)
さて、38:14-17において、主はもう一度、ゴグがイスラエルを攻める背景に自らが関与していることを 宣言します。馬に乗る大集団、大軍勢が到来します。そして、ゴグはイスラエルを攻め上り、地をおおう雲のように押し寄せます。しかし、主は、「わたしはあなたに、『わたしの地』を攻めさせる」(38:16) と言っています。さらに、イスラエルのことを「わたしの民」と呼んでいます。イスラエルが主に背き、 「もはや主の民ではない」という状況になったから、ゴグが襲撃してくるのではありません。イスラエル の地がその罪によってけがれて、「もはや主の地ではない」から、イスラエルに審判が下るのではありま せん。主は特別な目的をもっておられます。それを遂行するために、あえてゴグを起こし、主の民のいる 主の地を攻めさせていると考えることができます。ゴグは自分が、自分の意志で何かを行おうとしている、と思っているかもしれませんが、この王は主がある目的を果たすために立てた手段に過ぎません。 それでは、主の目的とはなんでしょうか。それは「わたしがあなたを使って諸国の民の前にわたしの聖 なることを示し、彼らがわたしを知る」(38:16)ことです。諸国民に主が聖なること、つまり主の主権 と力は他の何ものとも比べられることのできないほど偉大であり、本物の主であることを示すために、主はゴグにイスラエルの侵略をあえて行わせているのです(38:23)。 主の主権と力は二つの点で表されます。まず、北方の民であるゴグがイスラエルを攻めることは、昔、 主がそのしもべである預言者たちを通してすでに語っていることである点です(38:17)。つまり、この侵 攻はゴグ独自の計画ではなく、神の深い計画の内にあります。最強の力を持つまことの主権者がすべて計 画している通りに物事は進んで行きます。第二に、ゴグと多国籍軍の大軍勢にも関わらず、天地の創造者で あり、その支配者である主の力の前に無残にも敗北するです(38:18-22)。主は、自らが支配しているあ らゆるものを用いて、この軍勢を攻撃されます。大きな地震によって、主が造られたあらゆる存在が震え 上がり、揺れ動かないはずの山々、がけ、城壁がもろくも崩れ去っていきます(38:19-20)。ゴグの剣は、同士打ちをし、自分から崩壊していきます(38:21)。そして、疫病、流血、洪水、雹、火、硫黄がゴグとその多国籍軍の上に降り注がれます(38:22)。旧約聖書に描かれている主の戦いにおいて、主が用いておられるものの多くがここで挙げられています。 これらのことを通して主の偉大さが示されます。それとともに、聖なる主の下にあるならば、どのよう な強大な軍勢が襲いかかろうとも、捕囚からの回復を経験したイスラエルは「安心して住む」ことがこの幻を通して示されています。
III. 完全の主の主権の下にある終末
ダニエル書を学んだ時もそうでしたが、旧約聖書は、世界の歴史がすべてイスラエルの神である主の主 権の下にあることを主張しています。主は全世界の王です。世界は主の支配の下にあります。ですから、驚 くほどの力を持つ軍隊が襲いかかろうとも、サタンの大軍勢が襲いかかってきたとしても、聖なる主の下 にあるならば、主の民は「安心して住む」ことができます。ですから、聖書に書かれている終末のメッ セージは、わたしたちを来るべき危機や迫害のゆえにおびえさせるためではなく、逆に、危機や迫害にも 関わらず、確信をもって主に従うために記されています。
エゼキエル書38~39章(その2)
エゼキエル書38~39章には、イスラエルの民が捕囚から帰還し、その地に安住している時に、マゴクの 地の王ゴグと彼に引き連れられた諸国軍がイスラエルを来襲する幻が書かれています。全く無防備なイスラエルでしたが、主はイスラエルのために立ち上がり、その怒りの火をもってゴグを徹底的に打ちのめされます。39章では、ゴグとその軍勢とが迎える結末と共に、この幻の意義が書かれています。
I. ゴグが迎える結末
38章でも述べられていましたが(38:10-16参照)、ゴグとその軍勢によるイスラエル襲撃の背景には、 ゴグ自身の計画、商人たちの誘惑、そして主の計画すべてが重なっています。主の計画のうちに導かれ、イスラエルを攻め上ったゴグとその軍勢でしたが(39:2)、主がもたらす様々な災厄(38:21-22)を通して主の前にその戦闘能力を完全に奪われてしまいます(39:3)。 徹底的に打ちのめされたゴグは、完全に主の前に滅ぼされます。まず、その部隊はイスラエルの山に倒 れ、「あらゆる種類の猛禽と野獣のえじき」となります(39:4)。戦いで倒れた人々の遺体は、けがれた獣や鳥たちの食物となります(39:17-20)。本来の犠牲のささげものは、その最善のものが主の前に完全に焼き尽くされました。しかし、ゴグの勇士たちの遺体は、「雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛、すべてバシャ ンの肥えたもの」(39:18)と表現され、最もけがれたものたちの餌食となります。主に敵対し続けた者 たちに主が下される公正な裁きです。 更に、ゴグとその軍隊の持つ武器は、すべて火で焼かれます(39:9-10)。本来は、イスラエルの財産をかすめ奪うことが目的で襲撃してきたのですが、結局は彼らの武器こそが奪われ、それらがたきぎとなる のです。さらに、武器の焼却は、武力による戦いの終焉を意味しています。主が守られるイスラエルの民 には、もはや武器は必要がありません。城壁もかんぬきも門もない所で、武器なしでも安心して住むこと ができるのです。主の支配の下にある平和の到来です。 また、ゴグとその軍隊の遺体のための墓場がイスラエルの地に作られます(39:11-16)。遺体がそここ こにあるままでは、国は衛生的のみならず、祭儀的にもけがれたままの状況です。そこで、「国をきよめ る」(39:14)ために、七ヶ月かけて(それなりの長い期間)、遺体が埋められ、遺骨が回収されます。 遺体を集める人々はその後に「きよめのための祭儀」を行うのでしょう。なお、「ハモン・ゴグの 谷」(39:11)はイスラエルの地のどこにあるのかは不明です。 最後に、ゴグの領地であるマゴク(小アジア)と島々(地中海沿岸地域)に主は火を放ちま す(39:6)。ソドムとゴモラに下ったような災いが、マゴクの地に下り、彼らは滅ぼされ、主の正義が遂 行されます。彼らはマゴクの地で「安住」していました。しかし、彼らの安住はイスラエルの民の安住と は大きく異なります。前者は、自らの武力に依り頼み、そこから生まれてくる安住でしたが、後者は、主 の守りに信頼する安住でした。この二つの違いが示しているように、人の力、武力、金銭などによって生 み出される安住は、本当の安住ではありません。自らを滅びヘと導き、ついには主の審判を免れることの できなくなるのです。 このようにして、終わりの日に主の民に向かって戦いの手をあげるゴグとその軍隊は、悲惨な結末をむ かえます。背後に主の計画があったとはいえ、自らの武力と数に信頼する者に待ちかまえているのは悲劇です。主に依り頼む者は、丸腰であったとしても、全く恐れる必要はありません。
II. ゴグとの戦いの幻の意義
なぜ、エゼキエルは、ゴグの来襲という幻を語っているのでしょうか。かつてはバビロン帝国の軍隊に よって破壊されたイスラエルが、捕囚からの帰還の後、安住しているところにゴグとその大軍が押し寄せ てくる幻にはどのような意義があるのでしょうか。 三つの理由が挙げられています。 一つ目は、「主の聖なる名を主の民イスラエルの中に知らせる」ことです(39:7)。最後の戦いにイス ラエルは一切かかわってはいません。ただその地から眺めるだけです。しかし、イスラエルを選ばれた主 が他に比べ物のないほど偉大な神であり、全世界の主権者であることをこの経験を通して知るに至りま す(39:22)。そして、主の栄誉(主の聖なる名)がイスラエルの間で回復されます。主の偉大なわざを しっかりとイスラエルが覚えるようになるとともに、イスラエル自身が行ってきた罪を認め、その恥と責 任を自らのものとして負うようになるでしょう(39:26)。 二つ目は、「主の聖なる名を二度と汚させない」ことです(39:7)。バビロンによる捕囚を通して主の 栄誉が汚されてしまいました。世界中の人々が「主はイスラエルを捨てられたのだ」と考えたり、「バビ ロンの強大な軍隊の前では、主でさえも自分の民を救うことができない」と思うようになったからです。 しかし、バビロンよりも強大なゴグとその軍勢をいとも簡単に主は打ち砕かれる事を幻で示すことを通して、イスラエルは自らの不信の罪のゆえに主にさばかれたのだ、敵の手に渡されたのだ、と諸国の民は知 るようになるでしょう(39:23-24)。主は自らの民だからといってえこひいきされるのではなく、公平に さばかれ、国々を支配されることが明らかになります。 三つ目は、二つ目と密接に結び付いていますが、「諸国の民にイスラエルの神こそ主であり、イスラエルの聖なる者である」ことです(39:7)。他の神々とは違った全権者、まことの王として主は正しい裁き を行うことが、ゴグとの戦いを通して明らかにされます。もちろん、主はご自分の民であるイスラエルに 深くかかわっておられます。しかし、イスラエルを選ばれたからと言って諸国民に全く興味を持っておら れないのではありません。むしろイスラエルを通して、諸国民に主の祝福が行き渡ることを主はねがって おられます。イスラエルへの主の特別な関与(捕囚と回復、そして将来の守り)は、主の究極的目標であ る諸国民への祝福の到来が完成するためなのです。 ゴグとはどのような民であるのか、千年王国の後の戦いはどのようになるのかなど、興味は尽きませ ん。しかし、全ての戦いを終わらせる最後の戦いの幻は、主が一番最初から持っておられる計画が必ず完 遂することをわたしたちに伝えています。たとえ迫害と戦いの中にあっても、少数派として何ら力を持た ないような状況にあったとしても、イスラエルの神である主は、自らが選ばれた民と関わりをもたれ、そ の民を通して成就しようとしておられるその目的を最後には果たされるのです。ダニエル書でもそうでし たが、終末の幻は、どのような状況に陥ったとしても信仰の道を継続してすすみ、それぞれの場で主に 従って行くようにと、私たちを励まし続けるのです。ですから、繰り返しにはなりますが、終末に関する 聖書の記述を単なる預言、予告として理解し、それが具体的に何を指しているのかを解読しようとするだけでは、聖書が語ろうとしていることの半分も理解できないでしょう。むしろ、神が与えてくださっている幻に励まされ、迫害や困難にも屈することなく、主のご計画に確信をもって歩み続けることこそ、終末を生きるにふさわしい民の姿です。
エゼキエル書は
単なる「未来予言」ではありません
書かれた当時のユダヤ人 つまり捕囚の民にとっても
実践的な価値があるものでした
同時に
現代の私たちにとっても
今日を生きる力を与えるものです
エゼキエル書やヨハネの黙示録に記されている事柄と
今の社会情勢を結びつけること自体は
問題ではありません
むしろ
聖書の視点から 世界を見つめることは
常に 求められることでしょう
しかし
「これから何が起こるのか?」に思いを向けるあまり
聖書が語っている中心主題を聞き逃してしまうなら
それは とても残念なことです
【関連書籍】
左近豊著『エレミヤ書を読もう』
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