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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

スコット・マクナイト著『福音の再発見』を読む1
























イスラエルの物語
 イスラエル(あるいは聖書)の物語とは、聖書の構想が展開される様子を描いたものである。神は、ご自身の神殿として世界を創造し、神のかたちに造られたアダムとエバという二人の小さなエイコンを、神の宮の園(エデン)に置かれた。アダムとエバは、神の代理人としてエデンの園を治め、神と、自分と、他者と、また世界との間に、贖いがもたらされるような関係を持つはずだった。しかし、彼らが神の善い命令に背いたことで、神の代理人として園を治めるというたった一つの働きは、ずたずたに踏みにじられてしまった。そこで、神は二人をエデンから追放した。ここで、いきなりイエスと新約聖書に飛んで、イスラエルの物語(聖書の物語)を理解したような気になるわけにはいかない。聖書は、ページを繰るごとに新たな展開を見せるのだ。イスラエルの物語について語りたいことは多くあるが、本書の後半で、細かいことながらも重要な形で改めて述べ直すので、ここでは最小限にとどめておこう。
 神は一人の人アブラハムをお選びになり、彼を通して一つの民族イスラエルをお選びになった。後には、イスラエルを通して教会(the Church)を選ばれた。それは、神の祭司とし、また神の代理人として、この世界を統治する者とするためだった。アダムがエデンの園で行うはずだったこと、すなわち神の代わりに、贖いがもたらされるような形でこの世を統治することは、神がイスラエルに与えた使命だった。しかしアダム同様、イスラエルも、そしてその王たちも、これを全うすることができなかった。そこで神は、アダムとイスラエルと王たちが行わなかったこと(と言うよりも、行えなかったこと)を達成するために、そしてすべての人を、罪と、この世に浸透している悪と、サタン(敵)から救うために、ご自分の御子を送ってくださった。御子がメシアとして、また主として、この世を治める方であるとは、そういう意味である。



神の民 イスラエル

新しい神の民 教会との関係を考える時に

上記の引用の「イスラエルを通して教会を選ばれた」

というフレーズは

実は 鍵になるのではないかと 思います




教会は その始まりにおいて

イスラエルと密接に結びついていました


イエス様もイスラエルの一員でしたし

十二使徒は 全員ユダヤ人でした


マタイのように もともと「よそもの」と見なされていた人もいましたが

彼も やはり 「アブラハムの子」でした


イエス様の復活後 ペンテコステの時においてさえ

構成メンバーは 基本的に ユダヤ人でしたし

物音がしたときに集まってきたのも

広義のユダヤ人とその親派でした(使2:5, 2:11参照)




また

パウロは

ユダヤ人クリスチャンたちを

ユダヤ人の残された者である(ロマ11:4参照)

と考えましたし

クリスチャン全体を

アブラハムの子孫(ガラ3:29参照)

神のイスラエル(ガラ6:16参照)だと

呼ぶこともありました




もっとずっと遡るなら...

「教会」を表すekklesiaは

ギリシャ語訳の旧約聖書では

イスラエルの「集会」を指す言葉として

用いられていたものでした(申23:1, 23:8, 31:30, ヨシ8:35, Ⅰサム8:14参照)




そして

教会の外にいたユダヤ人たちも

クリスチャンを 初めは「異教徒」とは 見なさず

「分派」(使24:14参照)だと 捉えていました




つまり

イエス様を受け入れる「教会」と

イエス様を拒絶する「イスラエル」との境界線が

明確になってくプロセスは

段階的 漸進的なもの だったのです




このことを見落としてしまうと

 旧約と新約の関係

 割礼の問題

 パウロたちの伝道のあり方など

いろんなものをズレて捉えてしまいます


イスラエルと教会を

極端に混同することもたしかに問題ですが

全く分離してしまうことも

避けなければいけません




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