結局、真の神が悪に対処するために降りてきたらどのように見えるのだろうか。神は、栄光の炎のうちに、雲と火の柱の中に、天使の軍勢に囲まれてやってくるのだろうか。ナザレのイエスは、完全な危険を冒して、その問題への答えはあたかも次のようなものであるかのように語り行動した。すなわち、真の神が悪に対処するために戻ってくるときには、神は、過越の祭の期節にエルサレムに旅をする若いユダヤ人の預言者の姿をとり、神の王国をたたえ、腐敗した権威当局に立ち向かい、友人と祭りを祝い、祈りと苦しみのうちに残酷で不正な運命に屈して、自分自身の上にイスラエルの罪、世界の罪、悪そのものの重荷を負ってくださるだろう。イエスをこのように見るとき、私たちは、十字架が、私たちが真の神に会い、神を救い主であり贖い主である方として知るために行く場所として、私たちにとって新しい神殿になっていることに気がつく。十字架は、私たちがその前に立って、私たち一人一人のためになされたことを見つめるための、巡礼の場所となる。十字架は、権力と極めて残忍な力に象徴される異教の帝国が、一つの異なる力によって決定的な挑戦を受けてきたこと、そして、その異なる力の方が勝利することのしるしになる。
そこで、これ以上あり得ないほど明らかな仕方で私たちに問いが突きつけられる。私たちは十字架の前に立ち、私たちのためにんされたことをすべて認める勇気があるか。私たちは、「神」という語のすべての意味を受け入れ、これらの意味がこの人に、この瞬間、この死に、再び集約し、それによって定義し直されるのをあえて認めることができるか。私たちはこの世の支配者とは違うふるまい方をしなければならないというイエス自身の言葉の結果にまともに向かう勇気があるか。私たちは、このように贖罪神学と政治神学の、片方の深く個人的なメッセージともう片方の完全に実践的で政治的なメッセージを一つにして、ヤコブやヨハネの道に背を向け、イエス自身の道を受け入れる勇気があるか。そうでなければ、きっと、私たちは、残る二章で取り組もうとする課題、つまり、神がこれほどに愛し、メシアがそのために命を捨てたこの世にまだつきまとう悪の問題に、私たち自身の時代に、成熟したキリスト教徒として冷静な知性をもって取り組むという課題を始めることすらできないだろう。
N.T.ライト 著『悪と神の正義』p.123-4より
最近
クリスチャンの友人との間で
"dynamic" "dynamism"という英語を
どのように訳せば良いのか?
と 話し合うことが 何度かありました
dynamicには
大抵「動的な、活動的、精力的な」
という訳語が あてられますが
いまいち この語が持つdynamicさが
伝わりません
反意語として しばしば用いられる"static"は
「静的、静止の」という意味ですが
「静的でない状態を思い浮かべて!」
と 言ったところで
「一体 何が言いたいの?」
と なるでしょう...
dynamic...
抽象的 理論的というよりも
躍動的、関係的と言えば良いのでしょうか?
頭の中に閉じ込めておけないイメージです
正しく全能の神と 悪の 関係も
staticにではなく
dynamicに 捉えらなくてはいけない課題でしょう
理屈で整理を試みることにも
一定の価値はありますが
シリアスな場面では
あまり役に立ちません
やはり
「参与すること」「取り組むこと」が
抜け落ちてしまえば
やがて 諦念に支配されてしまいます...
N・T・ライトは
何かと 物議をかもす発言する学者ですが
この『悪と神の正義』は
彼の関心、持ち味が
生かされている本なのではないでしょうか?
彼に
「破壊的な愉快犯」のようなイメージを抱いている方は
まず これを手に取ってみると良いのではないか
と 思いました
dynamicなアプローチを通して
彼が 何を達成しようとしているのかを
垣間見れた気がしました
分析、定義、整理、解説だけで
何の実行力を持たない理屈ではなく
人々を巻き込む神の物語に
触れさせてくれます
しかも
その物語の生々しさが
味わえる形で...
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