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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

『創世記1章の再発見』
























本を読む時は

著者の想定していた読み手と

伝えたかった意図を

見出さなくてはいけません


もちろん

いつもそれが明示されているわけではありませんので

場合によっては

書かれているものから

推測しなくてはいけません




断定的なことは 言えませんが

私は ウォルトンの問題意識と趣旨は

以下の引用にまとめられている

と見ています


 もし物質的な地球の年齢に関する情報が聖書にないのなら、その場合、聖書を真摯に取り扱う人間としては、そのような論点(若い地球説)を擁護する必要はまったくなく、科学が提示する選択肢を考慮することができる。最終的に正しいとされる科学理論もあれば、新しい思考によって置き換えられるものもあるかもしれない。科学的な疑念があるなら、地球の年齢について現在支配的な科学的パラダイムを擁護する必要はない。しかし聖書がそう教えているからという理由で、古い地球説に反論するよう強いられることもまったくないのである。
 ここ百五十年間の統計で悲しむべき数字がある。それは、聖書信仰の環境で育ち、科学の分野や教育や職業を追求し始めた若者の間で、科学の主張と幼い頃から教えられてきた信仰の主張の折り合いをつけようとして、葛藤する人が増えていることだ。彼らは聖書を信じて若い地球説を固辞するか、古い地球説の説得力に圧されて聖書を捨て去るかの二者択一を迫られているように見受けられる。しかし幸いなことに、そのような選択は必要ないのだ。聖書は若い地球説を要求していないし、科学的証拠に基づいて地球は古いと結論しても、聖書信仰を捨て去る必要はない。 
 ここで、一つの論点を十分明確にしておくべきだろう。創世記一章が神殿としての宇宙の機能的起源に関する叙述だという見方は、神は物質的起源に関与しなかったと提示したり、示唆したりするものでは一切ない、ということだ。ただ、創世記一章はそういう話ではないと強く主張しているだけである。創世記の著者にとっても、聴衆にとっても、物質的な起源は優先される第一の事柄ではなかったのだ。しかし当時の聴衆にとって、神が物質的な創造の源にどんな形であれ関与していなかったとは、同じくらい考えられないことだっただろう。それゆえ、物質的な段階に神が中心的に関与するように描写することで、物質的創造の叙述に重きを置く必要はまったくなかったのだ。

創世記1章の再発見』pp.113-4より

 聖書の記述に

 現代の科学的知見を読み込もうとする一部の福音派に

 その解釈は聖書の「字義的意味」にそぐわないことを示すこと

これが、ウォルトンがこの本を著した大切な目的の一つなのではないでしょうか?


このことを通して

彼は大きな思考の転換を求めています


しかし

一方で

対立関係を生まないように

気を使っているようにも見受けられます


無用な誤解を取り除くために

彼は意図していないことを

明確に示しています


例えば

彼はアダムの実在性を否定していません


最近は福音派の中にも

そのあたりを曖昧にする学者も増えてきましたが

彼は

「聖書テクストはアダムとエバを歴史上の個人として扱っている」

と断言しています


また

彼は「無からの創造」という教理を堅持しています


コロサイ人への手紙1:16-17を引用しながら

「神学的に大切な点は、物質的なものであれ機能的なものであれ

 実在するものはすべて神が造られたということだ」

と論じています


加えて

彼は

創世記1:2に「混沌」の概念や擬人化された敵を

想定する読みも拒絶しています


彼の用いる「未秩序」という言葉は

機能していない状態「まだ普通でない」地を指すものであって

混乱していることを意味していないと思います




このように

彼はキリスト教界の教理的伝統に敬意を払いつつ

歴史的文法的解釈の重要性を説いています




もちろん

厄介な面もあります

「創造する(バーラー)」とは機能に関することばである と断言してしまうところや

科学的探求とその宗教的前提をすっぱりと切り分けてしまうところは

行き過ぎだと感じます


また

堕落以前の世界に

動物の死が存在したという考えは

感覚的に受け入れがたいものがあります




けれども

ウォルトンの言うように

科学主義の洗礼を受けた現代人の関心事が

聖書の著者の焦点、強調点からずれてしまっているということは

否定しようもない事実だと思います




 聖書の著者の想定していた読み手と

 伝えたかった意図を

 見出す

その意義と具体的な試論を示しつつ

科学との付き合い方についても再考する


そんな欲張りな(?)本として

『創世記1章の再発見』を捉えるなら

学ぶべきことが大いにあるのではないでしょうか?


【関連記事】

津村俊夫「ジョン・H・ウォルトン著『創世記1章の再発見』(いのちのことば社, 2018)書評」『聖書宣教会通信』174(2018.9.1.)

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