イエスの象徴行為のなかでもっとも重要なものの一つは、十二人の弟子を特別な使命のために選んだことだ。十二という数字はどう考えてもイスラエルの十二部族を思い起こさせるものだった。イエスの十二弟子は文字どおり十二の部族から一人ずつ選んだわけではなかった。それは弟子のなかに兄弟が二組いたことからもわかる。しかし、象徴的な意味で彼らは確かに十二部族の民としてのイスラエルの理想的な編成を想起させたことだろう。
この象徴性は二つの重要な側面から、イエスが神からの使命をどう理解したかをあきらかにしてくれる。第一に、それは神の民イスラエルの全十二部族に対する使命だった。イエスは先駆者の洗礼者ヨハネのように、緊急のメッセージを国中に伝え、悔い改めを呼びかけた。神に立ち返れ、神があなたがたに望まれる国としてふさわしい生活を整えよ、メシア時代を迎え、新しいイスラエルとして生きよ、と。イエスもまたヨハネのように、神の裁きが悔い改めない者に下ることを予見したが、イエスの使命に際立った特徴は彼の確信にあった。それは彼の王国が裁きとしてよりも、神の恵み、憐れみ、慈悲、癒し、赦しの力として手の届くところにあるというものだった。この確信からイエスが特別の関心を払ったのが、神の羊の群れから「失われた羊たち」、すなわちなんらかの形で疎外されあるいは排除されていた人々だった。彼らについてはすぐに触れた。物乞いたち、悪霊に憑かれた者たち、極悪人たちだ。神の王国の訪れに際し、彼らは置き去りにされるのではなく、招き入れられることになった。その王国は神の癒しと憐れみとして現れていたので、それはこうした人々にとっていわば特別な意義があった。イエスは自らの役割を医者になぞらえてこういった。「医者を必要とするのは、大丈夫な人ではなく病人である」。
十二弟子の任命から見えてくるイエスの使命の第二の側面とは次のことだ。イエスは、神の憐れみの手を広げて人々をその王国に迎え入れるのと同時に、弟子たちとの共同体を築こうとした。その共同体は新しくされた人々の中核となるべきものだった。ヘブライ語聖書のなかでイエスの十二弟子の先例となるのは、十二部族の祖先とされた族長たちよりも、むしろ後にその部族からそれぞれ選ばれた十二人の指導者たちだろう。彼らは出エジプト後、荒れ野にいたイスラエルの人々を率いるためにモーセが任命した人たちだ。イエスの十二弟子は、新たな出エジプト後のイスラエルの指導者たちなのだ。彼らはイエスに常に付き従い、彼からその使命をどう引き継ぐかを学ぶべき人たちだた。癒し、悪霊を祓い、王国到来の良き知らせを無一文とのけ者に届けるというその使命を。
『イエス入門』p.85-86より
幼い頃
我が家には 番組の視聴制限がありました
親が「心を豊かにする」と判断した世界名作劇場のような作品は推奨されましたが
下品もしくは有害と見なされたものは 見れませんでした
そのダメなものには
たしか 水木しげるの作品も含まれていました
おそらく 宗教上の危うさが あるからでしょう
無言の圧力を 感じていました
しかし
そんな視線も感じ
やましさを覚えながら
ときどき見ていたのが
「悪魔くん」でした
まぁ
タイトルからして「アウト」なんですが
自分でも
「こういうのは まずいなー」
と感じていたのは
「十二使徒」が登場することでした
しかし
そんな違和感を覚えつつも
その頃は
それ以上「十二」という数字の意味について
深く 思い巡らすことはありませんでした
成人するまでは
時計の数字と同じ というぐらいしか
考えていなかったと思います
けれども
当然のことですが
イエス様が
何の理由もなく十二人を選ばれたはずがありません
間違いなく
何らかの意図があったはずです
ボウカムは
イエス様が 十二部族を意識しておられたと述べていますが
この理解は無理がなく
納得のいくものです
また このことは
ヨハネの黙示録の御言葉からも
支持されるものです
また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。
「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた
ヨハネの黙示録21:9-14
ここが厳密に 何を語っているかについては
解釈の幅があるでしょうが
十二の門と十二の土台石に注目するなら
十二部族と十二使徒には
何らかの 結びつきがあることは たしかな ことです
このような十二部族と十二使徒の連続性を思うと
改めて イエス様の人選の「異常さ」に気づきます
例えば
取税人マタイは イスラエルの代表となるには
ふさわしくない人物でした
彼は 生まれは ユダヤ人でしたが
ユダヤ人の枠から はみ出てしまった人間だったからです
また 残りの 使徒たちも
イスラエルの指導者となるには
役不足でした
ユダヤ人として 長年 聖書教育を受けていたとはいえ
エルサレムのエリートから見れば
彼らは 無学な 集団でした
しかし
イエス様が
そんな彼らを
「イスラエル」への使者、大使として選ばれたことは
まさに 恵み 憐れみの原則を
体現するものだったと 言えます
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