先日、ある神学校の校長先生が
こんなことを言っておられました
「日本は宣教後進国です
何百年の歴史がある宣教先進国とは違います
それならば
伝道のあり方も、教会の形も
身の丈にあったものにすべきではないでしょうか?」
と
発展途上の段階に求められるのは
高度な教育、洗練された組織ではない
もっと素朴な伝道活動ではないか?
という先生の問題提起は
とても重要なものだと思いました
また
先生自身が
海外で宣教されていたという事実が
その発言に説得力を与えていました
ただ
一方で
日本はやはり社会的には「先進国」です
今日の話ですが
市の図書館に
先週 予約していた本を取りに行ってきました
これは
How to Read Proverbsの訳文のチェックの参考にするために
借りてきたものです
(上記の英書には 聖書との比較のために「神話集成」からの引用がなされています)
母国語に訳された古代オリエントの資料が
無料で
近くの図書館で
手に入る
これが、私たちの国です
一般的な教育水準はどうあれ
やはり、専門知のレベルは
それなりのものがありますし
知的探究を願う人たちには
開かれた環境があるのです
「彼らに馬鹿にされないように!」
と気張る必要はないでしょうが
「キリスト教はいい加減だなー」
と誤解されないよう
配慮しなくてはいけません
何故なら
私たちの伝道の対象には
様々な分野の専門家や
知的な厳密さを大切にされる方々も含まれているからです
限られた時間と能力の中で
つっこみどころのない発信することは不可能ですが
自身の限界を素直に認め
よく知りもしないことについての
大胆な発言を控える謙遜さは
求められることでしょう
【関連書籍】
ジョン・H・ウォルトン著『創世記1章の再発見』
これは もはや 誰がどうのという問題の以前に 個人的な迷いでもあるんですが 「何処まで学べば良いのか?」「いつまで保留にすべきなのか?」 と常に悩んでおります もちろん 正論から言いますと いつまでも「反芻すべき」であり 生涯かけて知的な面でも聖化されるべき なのでしょうが 時に、疲れと虚しさを覚え もっとシンプルでも良いんじゃないか? もう少し実用的なことに エネルギーを注ぐべきではないか? など 揺れを感じるんですが でも、伝道って本来 複雑なものだよなーと 言い聞かせたいだけ なのかもしれません笑
老松様、イニシャル表記だと Doctor NO、いや far east 3国(正確には5国)風に ON 主事と呼びましょうか。ちょっくら失礼をばいたします。 今日の投稿について、オリヴの園の執筆方針では(http://kaboliveland.life.coocan.jp/olive.html);
【Guidelines】
⑤神の言葉たる聖書66巻の解釈においては、所詮は人間のわざであることを覚えつつ、神からの解き明かしを待つ。
⑥真理と考えられる複数の事柄に矛盾と思われることがあったとしても、いずれかを斥けることはしない。
⑦出来うる限り平易な用語を使い、溢れる喜びと熱き想いを伝える。 と記しております。とくに⑤・⑥は、JECAたんぽぽ教会のHM牧師が学生時代に是非入れてくださいと言ったものでした。 いちばん怖い考え方は、たった一度、御言葉(聖句)の意味について神様から与えられたからと言って、そこで思考停止に陥ってしまうことですね。御言葉は、聖い動物のように反芻して味わい、知り、他者(複数)のために用いることができるように、いろいろなシチュエーションに耐えられるよう精錬されるべきだと思います。そこには、統一性と多様性との間に立って何度もフィードバックする、そういうイメージがあります。
ちょっと前のクリスチャン新聞の1面に載った聖書の釈義論「信仰」か「真実」かの議論などは、その最たるものだと思います。神様が人間の与えておられる恵みのメッセージでは、父なる神の真実によって根拠づけられ、御子イエスによって敢えて信頼されるようになった 人間の信仰が、御霊によって相互に広がってゆくことを三位一体の神の真実が支えてくださる、という驚くばかりの「事実」を表す「パッケージ」として伝えているのがピスティスだと結論づけるだけで十分ではないかと思うのです。 言葉のもつ外延と内包も同じです。とくに「ディスP」と呼ばれる考え方(間違っているのではないです。これから言うのは、傾向があるというだけのものです。誤解なきように!)で最近流行っているところの「御言葉=1つ1つの単語は一つの意味で釈義するのが原則」というものです。ON主事も、そのような危惧感から投稿されたのでしょうか?(とある校長先生に対するものではないことはわかっています。念のため!)。内包が乏しくなればなるほど、御言葉の意味はクリアになるのは事実ですが、余りにも豊かになりすぎた外延との関係で、どうしても「議論」、人間の業が忍び込みやすくなると思うのです。
神学の骨組みは組織神学です。それを強固にしてゆく必要はあります。しかし、同時に、♪「見よ神の御殿」の宮を築こうとするならば、屋根や壁や床も必要です。読書家であられるON主事は、その賜物を生かして、ますますこれから主に用いられることでしょう。神の祝福をお祈りいたします。 カボペンより