私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
コリント人への手紙第二12:2-4
この12:2-4は
新約聖書の中でも
特に 神秘的に思える箇所の一つではないでしょうか?
日本語には「天にも 昇る思い」という言い方がありますが
パウロは 文字通り それを 経験したようです
ただ
原語で 読み直してみますと
少し 違った印象も 受けます
というのも
じゃっかん 穏やかでない表現が
用いられているからです
12:2, 12:4で「引き上げられる」と訳されているἁρπάζω harpazō (G0726)は
「ひったくる」「強奪する」「略奪する」という意味の言葉です
福音書では
「奪い取る, 奪い去る」(マタ12:29, 13:19, ヨハ10:12, 10:28-29)
「連れて行く(連行する)」(ヨハ6:15)と訳されています
また
使徒の働き23:10で
「引っ張り出す」と訳されているのも
同じ語です
論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れた。それで兵士たちに、降りて行ってパウロを彼らの中から引っ張り出し、兵営に連れて行くように命じた。
使徒の働き23:10
パウロが
何故
このように きつい言葉を 用いたかは
わかりません
けれども
彼が 幽体離脱や恍惚体験のような形で
ゆるやかに 天に至ったのではなく
一挙に天にまで 導き入れられたことは
少なくとも 読み取れるのではないでしょうか?
もう一つ 興味深いのは
この全く同じ言葉を
パウロが テサロニケ人への手紙でも 用いていることです
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
テサロニケ人への手紙第一4:17
ここを 直訳的に訳すならば
次のようになります
「私たちは、彼らと共に、雲の中で、主をお迎えするために(主との会見の中へ)、空中へ引っ張り入れられるのです。」
おそらく
パウロは
自身と同様の経験 いや それ以上の祝福
主の臨在を味わう特権に
「私たち」が いずれあずかると
語ろうとしたのでしょう
ここから
さらに 想像を膨らませましょうか?
もし
4:16の「号令」と「ラッパ」が 戦いの合図であり
4:17の「空中」が「空中の権威を持つ支配者」の領域であるなら
もしかしたら
「私たち」は主の分捕り者、戦利品なのかも しれません
ところで
ピリピ人への手紙2:6には
キリストは
神としてのあり方を
捨てられないもの(a thing to be grasped)
とは 考えられなかった
とあります
キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず...
ピリピ人への手紙2:6
栄誉ある神の立場を
ἁρπαγμός harpagmos(G0725) 手放したくない獲物 何としても利用したいもの
ではないと 見なされたのです
(ご察しの通り...
「捨てられないもの」と訳されているἁρπαγμόςは
ἁρπάζωの派生名詞です)
けれども
「私たち」のことは
略奪すべきもの
是非とも手に入れるべきものとして
自らのところに取り戻そうとされたのです…
…
と ここまでくると…
読み込み 思い込み 言葉遊びの領域に入ってきますが...
少なくとも
ἁρπάζωは
「引き上げる」という上下移動よりも
獲得という点に重きを置いた言葉であることは
間違いありません
主なるイエス様の熱情が
伝わってくる 躍動的な表現ではないでしょうか?
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