――急に学校が閉められて先の見通しも立たず、大人も子どもも心が不安定になっていると感じます。
それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた? 居心地はよかった? 普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい。
...
おれはもともと、今の学校や社会は、子どもに失礼だと思ってる。
――失礼、ですか。
子どもにとって教育は「権利」だと憲法に書いてあるのに、6歳になったら必ず小学校に行き、しかも学校も先生もほぼ選べない。おれの娘は2人とも途中で学校に行くのをやめたけど、学校に向いてる子と向いてない子、あるいはどっちでもいい子がいる。
学校に行きたくない子どもに親が行きなさいというのは、子どもが「お風呂が熱い」って言ってるのに、親が「肩までつかって100まで数えなさい」というようなもので……。
...
ガキたちには、むしろこれがチャンスだぞって言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。
――チャンス?
だって、学校も仕事も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまらなかったのか、本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない?
働き方も国会も、色んなことの本質が露呈しちゃっている。五輪延期も、オリンピックより人の命って結構大事なんだなとやっと再確認したんだろうし、優先順位がはっきりしてくる。
変革を訴えた時に
しばしば返ってくる意見の一つに
「新しい形に ついていけない人を 振り落としてはいけない」
という ものがあります
ごもっとも!
愛のない革新は
ただの暴力です
けれども
同時に
「現行の形は それについていけない人を
振り落とした結果であるのかもしれない...」
と想像してみることも
必要ではないかと思います
わかりやすく決裂して 出て行った人だけでなく
静かに去っていった人もいるでしょう
そして
身体はそこにありながら
自分を 押し殺している人もいるはずです
教会では
(五味さんの言うように...)
「本当は何がしたいのか」を中心に据えて
物事を決めていくわけには行きません
けれども
本質と優先順位を はっきりさせることは
やはり 不可欠なことです
ただ
その「優先順位」を決める時に
注意しなければいけないのは
「何」を優先するかの前に
「誰」を優先するかを 確認しなくてはいけない
ということです
イエス様は
「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」と語られました
この原則に立つならば
すでに 「多くを与えられた」信仰の先輩には
より 重い責任が求められます
そう考えると...
信仰歴の長い年長者の精神的な安定よりも
信仰を持って間もないクリスチャンへの配慮を
優先しなければいけないことになります
(少なくとも 理論上は...)
コロナ禍の中で
「元に戻す」努力をすることも 尊いことですが
並行して
その後のふさわしいあり方も
模索していきたいですね
あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
ルカの福音書15:14
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