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森本あんり著『異端の時代』を読む2

更新日:2019年11月15日















啓典宗教における正典
 前章で確認したのは、「正典は正統を定義しない」ということであった。ふつうわれわれは、正典こそ正統の判断基準だ、と考えている。簡単に言えば、「聖書こそキリスト教の源泉で、そこに正統がある。だから聖書に則っていれば正統だし、そうでなければ異端だ」ということである。ところが、初期キリスト教の発展過程を素直に見てみると、正典と正統の依存関係はむしろ逆であることがわかる。正統は正典の形成に先立って存在しており、むしろその先在した正統に則って、正典が定められたのである。
 このような理解には、異論もあり得よう。たとえば、それはキリスト教が自己定義に忙しかった初期の話だけで、いったんそれが確定した後は、やはり正典が正統と異端の基準となったのではないか。キリスト教の教義というものは、みなどこかしら聖書に典拠があるから教義になったのではないか。そもそも和辻が指摘したように、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三つは、「正典」をもつからこそ正統と異端の判断ができるのだし、だからこそそれら三つは別して「啓典宗教」ないし「書物宗教」と呼ばれてきたのではないか。
 これらの異論は、ある程度まで正しい。ただ、正典が定められた後は、別の新たな問題が生じる、ということも忘れてはならない。それは、「解釈」という問題である。すべて書かれたものは、解釈を必要とする。憲法が単に制定されるだけでなく実際に解釈され適用され続けねば機能しないのと同じように、正典も正典だけで機能するわけではない。ひとたび制定され固定された文書は、歴史が展開するにつれて当初は想定されていなかった新たな事柄や事態に直面する。だから解釈と適用が不可欠なのである。では、それを解釈するのは誰か。誰の解釈が正しいのか。正統の所在をめぐる問いは、こうして次のステップへと進められる。
 解釈の正統性という問題は、「正典」「教義」「職制」という宗教の三要素のうち三つめ、すなわち教権集団や教導職の権威ヒエラルキーに関わる。...

第3章 教義が正統を定めるのか『異端の時代』p.69-70より




プロテスタント信仰の「形式原理」と呼ばれる「聖書のみ」の原則を

大事にしたい私としては

上記の一段落目の文章には、違和感を覚えてしまいます




ただ

この本 全体を よく読むと

森本氏が

破壊的な 「正典論」を展開しているわけではない

ということが わかります


前章(2章 正典が正統を作るのか)には

以下のように記されています


 正典はしばしば、正統派が異端を排除するために作った道具立てであるかのように見なされる。だが事実は逆で、まず異端が正典を作り、それにあわてた正統が自分たちでも正典を作って対抗したのである。つまり、異端は正典を根拠として排除されたのではない。正典が異端を排除したのではなく、むしろ異端が存在したおかげで正典が成立したのである。...
...正典編纂の時期がローマ帝国の政治的統一と重なるのも、陰謀論のお気に入りのポイントである。コンスタンティヌス体制で権力を掌握した教会は、帝国の絶大な政治権力を背景に、キリスト教の統一を推し進め、その手段として正典を作り出した、という筋書きである。この理解によれば、「正典結集」と「異端排除」とはほとんど同義語である(田川 一三一頁)。
 しかし、こうした見立てには決定的に欠落している視点がある。それは、人びとの信頼がおのずと向かう権威の存在と、その集合的な経験の歴史である。どんな権力も、いきなりその場で「これが正典だ」と作り上げることはできない。たとえ教会が帝国の政治権力と結託していたとしても、たとえ正典結集が異端排除を目的としていたとしても、そこでできるのは、すでに存在していた正典目録を追認することだけである。正典の内容は、会議で決定されるはるか以前に、人びとの信仰と経験の歴史の中で、すでに固まっていた。いかに強大な権力も、いかに権謀術数に長けた政治家も、その内容を恣意的に変更することはできない。それをあるがままになぞって是認することができるだけである。ここに、正統の本来の所在が示されている。

『異端の時代』p.57-58より


ここには

 教会会議や為政者が 正典を作り上げたのではなく

 正典を 「追認」「是認」しただけだ

と記されています


この正典理解は

福音派の正典論から かけ離れたものではありません




しかし

それでも

違和感を 全く 拭い取ることは できません




保守的な 福音派では

伝統的に

聖霊の働きである「霊感」と「照明」を

明確に区別してきました


聖書の執筆過程と その結果 出来上がった書物に及んだ 御霊の働きを 特別に 重視し

聖書の読者に働かれる御霊の導きを 幾分 相対的なものとして 捉えてきたのです


もっと シンプルに説明するならば

 聖書の絶対性を唱え

 教会の解釈や伝統を その権威の下に服させてきた

ということです




しかし

森本氏は

「正典」を

そのようには 受け止めていません


『異端の時代』は

あくまで一般向けの書物ですので

「聖書論」「霊感論」は 論じられていませんが

少なくとも

聖書に 特権的な地位は 与えられていません


もちろん

「正典」である「聖書」を軽視していませんが

それを 至上の権威と 掲げることもありません




聖書だけを 中心点 あるいは 土台に据えて

そこから論理を組み立てていくのではなく

むしろ

正典、教義、聖職者の 相互の関わり合いの中で

営まれてきた教会の歴史全体を

包括的に 捉えようとしています




興味深い捉え方ですが

彼の アプローチでは

キリスト教の神秘的側面が薄められ

人間的次元に解消されそうな時に

待ったをかけるのが 難しいでしょう


また

境界線も根本原理も 曖昧なため

「歴史の審判」を待たなければならない局面が増え

暴力的な異端への対応が

後手になってしまいかねません




しかし

歴史を超えた「聖徒の交わり」に

注意を向ける森本氏の姿勢からは

教えられるものがあります


というのも

教義的な遺産だけでなく

信仰的実践によって

形成されてきたキリスト教の総体に

注目することによってこそ

見出しうることも あるからです




「神の摂理」は

聖書の執筆や

正典の結集だけでなく

教会のあらゆる面に

働いています


その神の御手に無頓着であることは

神の教会にとっての 損失です







吉田隆氏は『五つの"ソラ"から』で

次のように述べていますが

同じく

正典と正統と異端の短絡的な理解の

再考を促すものではないでしょうか?


 キリストの教会とは、キリストの"福音"によって生み出された神の民のことです。その"福音"が、いかに確固たる歴史と豊かな内容を持っているのかを証ししたものが、旧約聖書の三十九巻の文章です。そして、その確信に聖霊によって導かれた使徒たちによって書き記され、やがて旧約聖書と同じ権威を持つ文章として礼拝の中で読まれるようになった文書、それが新約聖書なのです。したがって、新約聖書の中心は、あくまでキリストの福音であり、その福音はすでに旧約聖書の中に(隠されてはいましたが)存在していたものなのです。
 このように、今日、私たちが信仰と生活の基準としている六十六巻の聖書は、最初から整っていたわけではないことを知っておく必要があります。非常にダイナミックな神さまの歴史の中で、神のみことばが生み出され、そして集められてきたのです。決して最初から六十六巻があったわけではありません。このことを心にとめておかないと、聖書の読み方を間違ってしまうことになります。
 "異端"と呼ばれる人々は、かならず聖書を使います。聖書を使わない異端はありません。使わないとすれば、それは"異教"です。異端とは、聖書を使いながら、しかも誤った解釈をする人たちのことです。では、なぜ同じ聖書を使いながら、彼らの解釈は間違っていて、私たちキリスト教会は正しいと言えるのでしょうか。
 そこに関わってくるのが、教会が初めのときから継承してきた信仰の伝統です。それを受け継いでいるか、受け継いでいないかの違いです。古代教会がさまざまな異端と戦ったとき、当時の教会指導者たちは、「われわれは主イエスから受け継いでいだ伝統を持っている」と言いました。「聖書を持っている」とは言いません。異端も聖書を持っているからです。けれども、異端と大きく異なるのは、主イエスから、また使徒たちから脈々と継承されてきた福音に基づく信仰の伝統があるというところなのです。ですから、私たちプロテスタントも、"教会の信仰(伝統)"を決して軽んじてはいけません。それを軽んじて自己流の聖書解釈に陥るとき、かならず異端が起こってくるからです。これが、教会の歴史の事実です。

五つの"ソラ"から』p.58-9より




聖なる公同の教会に働かれる神様の声に

耳を傾け続ける者でありたいと願います




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