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スコット・マクナイト著『福音の再発見』を読む8

もう一度、このことを強調させてほしい。私は初代教会や中世の教会を理想化しているのではない。これらの時代の教会にも、私は多くの不満がある。マリヤ崇拝への移行もそうだし、権力が中央に集中するようになったことで、悲惨にも免罪符が生まれたのは、非常にゆゆしき問題であった。さらに、ほぼ自動的に典礼に与らせるシステムは、福音への個人的な応答を阻むことになった。宗教改革の上に神が置かれた意義に疑問を挟もうというのではない。救いを明確にすることや、その個人的な提供をはっきりとさせ、それを必要とすることに反論するのではない。そうではなく、使徒的福音の文化は見事に形を変えてしまったので、今や私たちは、福音の文化との接触を失いつつあると言っているのである。そしてそれはもっぱら、先ずアメリカのリバイバリズム、その後は根本主義たちと近代主義者たちの間の文化戦争において示された、福音主義の力強い福音伝道の文化の結果なのである。
 私たちは、救いの文化を失わないようにしながらも、福音の文化に立ち返る必要がある。しかしそのためには、もう一度最初から始めなければならない。本書では、イエスは福音を宣べ伝えたのかという問いを出発点に、使徒的な福音と、その福音がいかにして救われるための方法に移行してしまったのかを慎重に検討してきた。そろそろイエスに関するこの問いを、新しい視点で問い直すことができるだろう。

福音の再発見』pp.105-6より




リバイバル

リバイバル...

あたかも それが 素晴らしい物のように

あたかも それが 輝かしい物のように

私たちは ただ 讃美してきましたが

実際のところ どうなんでしょう?




revivalは

日本語では「信仰復興」と訳されます


リバイバルが

その名の通り 信仰復興

つまり

信仰的な「大覚醒 great awaking」を意味するものであるなら

讃美され 切望されるべきなのかもしれません


特に 1700年代に北米で起こったリバイバル

人々を悔い改めへと導き 米国社会の変革をもたらした歴史的な出来事です




けれども

「リバイバル」と呼ばれたものの全てが

理想的 模範的なものだったわけではありません


ノーマン・クラウスは

1800年代に起こったリバイバルについて

次のように述べています


フィニーの指導によって勧められたリバイバル主義は、以後リバイバル主義を現在まで特徴づけてきた特徴を発展させました。
 第一に、それはキリストのからだなる教会の中での個人の生活よりも、個人個人の回心体験と回心体験に伴う救いの確信を強調しました。その倫理観も同様に個々の人間の経済的、社会的、政治的なあり方よりも個人の聖化を目指すものでした。
 第二に、リバイバル主義は伝道を教会の根本的な関心事と考え、事実上リバイバル集会を開くことを教会の使命と等しいものとしました。フィニーの働きはこのような強調点の転換の始まりになりました。フィニーの時代にはそれはまだあまり明白な形をとっていませんでした。けれどもムーデーの時代、そして二十世紀初頭のリバイバル主義の時代になると、そのことがいよいよ明らかになりました。
 第三に、リバイバル運動は教会間の教派を超えた協力関係を助長しました。相違点は救霊という共通の関心の影に隠され、共通した福音的神学が強調されました。
 第四に、その神学的立場の内容は最小公約数に絞られました。リバイバル説教の内容はますます一般信徒向きになり、伝道目的、つまりキリストを受け入れる決心をうながすためのものになりました。それはよい意味で神学用語を単純なものに変えただけでなく、神学固有の複雑な概念を伝道目的の決まり文句や陳腐な説明句に変える役割を果たすことにもなりました。
 最後に、リバイバル運動は本質的に保守的です。それは理想化した過去の経験と正統的教義を基本的モデルと考えて、それに現在の経験や教義を合わせようとし、たいせつなことは失ったものを取り戻し、再生し、もとの状態に返すことであると考えました。それは「古きよき時代の宗教」の思い出をたいせつにし、そのために別に意図したわけではありませんが、現実と対決する代わりに、一種のノスタルジアと懐古趣味に耽ける結果を招きました。



 個人個人の回心体験

 救いの確信の強調

 個人の聖化だけを重んじる倫理観

 神学固有の複雑な概念の単純化

 理想化された過去の経験...


ここにあげられているものは

救いの文化の土台を形成するもので

私たちの教会にとって 根本的なものに思えます


もちろん

回心体験や 救いの確信や 個人の聖化が

キリスト教信仰において 重要なものであることは

否定するつもりはません


けれども

そこだけに 焦点が当てられたところに

問題がありました


そして

目に見える「成果」を追い求め

効率的に 「現象」を再現しようとした時から

「リバイバル」は 違った方向に進んでいきました




宇田進も 同様のことを 述べています


イギリス植民地において、やがて宗教上の統一と統制が崩壊する。そのような状況の中で、教会は権力による上からの支配によってではなく、説得とアッピールによって一人一人新しい信者を獲得していかなければならなかった。その際に、教会が最良の方法として採用したのが「リバイバル方式」である。
 当時のこの方式に特色的なことは次のような点であった。(1)福音をわかりやすく伝える。言い換えれば問題を非常に単純化する。(2)だれにでも必ず救いは訪れると主張する。(3)回心に際して、個人の宗教体験を強調するために、次第に人間の側(たとえば人間の決断)により重点を置くようになり、結果として人間の自由意志を強調する方向へ進む。(4)一人でも多くの回心者を生みだすために、最後の審判や永遠の刑罰の恐ろしさを知らせる説教が強調される。(5)大衆に受けるダイナミックな説教家たち(たとえばチャールズ・フィニーのような大衆伝道者)が、新たに指導者として歓迎される。(6)地方の牧師たちは、自分の地域で定期的にリバイバルを成功させるために、いかにその能力を発揮するかという面から、牧師としての資質を判定されるようになる。

現代福音主義神学』p.433-4より




日本の教会の多くは

この「リバイバル方式」に動機付けられた 宣教師によって建てられました


そして

この「リバイバル方式」を

普遍的 絶対的な規範だと思い込んできたのです


しかも 厄介なのは

目覚ましい「興盛」を 経験したことがないにも関わらず

Re-vival「復興」が 追い求められてきたことです


厳しい見方をするならば

ヴァーチャルな「ノスタルジア」「懐古趣味」に

引っ張られてしまってきた

と 考えることもできるでしょう...


しかし

まず 必要なのは

文化脈化

いや

福音の受肉化でした




当然

「リバイバル方式」の全てが

間違っていたわけではありません


でも だからこそ

マクナイトが述べているように

救いの文化を失わないようにしながらも

福音の文化に立ち返る必要があるのです




慣れ親しんできた「方式」を評価 吟味することには

抵抗を覚えるかもしれませんが

「福音」そのものの爆発力に信頼して

福音を味わい 体現できる 「新しい様式」を

模索していきたいと思います



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