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森本あんり著『異端の時代』を読む1














 念のために触れておくと、ニカイア公会議でもトレント公会議でもそうだが、正統は「アナテマ」に先行する肯定形の文章によっても表現されている。だが、それはあくまでも多くの可能性のうちからもっとも明快と思われるサンプルを示しているのであって、そこに提示されたものだけを排他的に正統の内容と認定しているわけではない。
 この点を誤解すると、「ファンダメンタリズム」への逸脱が始まる。「ファンダメンタリズム」ないし「原理主義」は、そもそもの名前の由来となった二〇世紀初頭アメリカのキリスト教においても、あるいは現代イスラムにおいても、「始原への復帰」を掲げる。しかし実際のところ、彼らの主張内容はきわめて現代的な反動で、彼ら自身が選択的に理解した限りでの「原理」や「始原」への復帰を求めているにすぎない。「Aでないすべて」の単なる例示としてBとCとDが掲げられているのに、その三つだけが正統であると誤解し、その後に続くはずのE、F、G、H......を拒絶する、というのが原理主義の成り立ちである。そこでは、同じ枠の中での等格性が見失われている。
 プロテスタント教会ではカトリックほど教義的な正統の座が明確ではないが、正統をめぐる振幅はむしろそれだけ大きくなり、ファンダメンタリズムへの傾斜もまた急勾配になる。正統の制動力が薄弱なのである。その兆候は、過去にも現在にも見いだすことができる。たとえば、「ドルト信条」や「ウェストミンスター信仰告白」といった特定のプロテスタント的な信仰告白をみずからの準拠すべき「正統」とみなすような場合、原理主義化の危険は大きくなる。一つの例示にすぎない定式が正統の排他的な表現とされると、信仰は表現の多様性や自由を失って硬直化し、豊かさを失ってやせ細る。それは、生きた共同体の信仰ではなく、博物館に収められるべき標本としての信仰になってしまう。このような硬直化を防ぎ、正統のごく大雑把な外枠だけを指し示して、あとは自由に委ねる、というのが否定形によるアナテマの知恵なのである。
 以上、正統の捉え方には大きく分けて二通りあることがわかる。一つは境界設定型で、これは最大外周を否定形で囲い、その内部での自由を保障するやり方である。もう一つは内容例示型で、こちらはその自由を部分的に結晶させて肯定系で定式化するやり方である。前者はまったく何の定義もない広大無辺の現実に枠をはめ、その限定によって正統の息づく自由な空間を現出せしめる。後者はその空間に漂う無数の可能性の中から、具体的な条項をいくつか例示することによって、限定的ながら正統の可視的な姿を示す。いずれの場合でも、自由と限定は表裏一体ないし不即不離の関係にある。限定があるからこそ自由がある、ということである。

森本あんり著『異端の時代』p.169-171より




ファンダメンタリズムの傾向のある群れで育ち

ファンダメンタルズ」の流れを組む「福音派」を

自認する者としては...

「ファンダメンタリズムへの『逸脱』」というフレーズは

読み飛ばすことは出来ません




逆に

私の立場からは...

 「メインライン」と呼ばれる教会が

 歴史を超えて受け入れられてきた「正統的」な教理を捨て

 「異端的」になっていたからこそ

 「保守派」が 結束して

 以下のような五教義を

 「ファンダメンタル」(根本的)なものとして確認した

...と 見えています


 1.キリスト教の≪規範原理≫としての聖書の霊感と無謬性

 2.キリストの神性と密着している処女降誕

 3.福音の核心である十字架におけるキリストの身代わりの贖罪

 4.キリストの体の復活(キリストの人格とわざは≪実質原理≫と呼ばれてきた)

 5.奇跡の真実性


これらの 特に2, 4, 5までは

五信条にも含まれており

キリスト教の歴史において

「どこでも いつでも 誰にでも 信じられてきたこと」

だったのではないでしょうか?


それを放棄することこそ

「逸脱」のように思えます


また

上にあげられた五教義は

最低限のものを 例示しただけであって

これだけが 全てだと考えられていたわけではありません

(そのように 捉えて 分離していった者たちもいましたが...)







ただ

一方で

森本氏の指摘には

もっともな部分もあります




私の側からは

彼の語る「正統」理解は

相対主義 世俗主義に

道を開くものに思えますが

他方

根本主義から生み出された福音派が

排他主義、教条主義に陥る傾向があるのも

否定できません


また

現代的な反動を 行動原理としているだけでは

何かを建てあげていくことはできないということも

肝に銘じておきたいものです




【関連書籍】

袴田康裕著『信仰告白と教会

ジョン・マーレイ著『カルヴァンとウェストミンスター

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