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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

私を構成するもの3

更新日:2020年3月6日
























割と

「どっちでもいい」「どうでもいい」

と片付けられる領域は広い方ですが

聖書解釈、教理理解、教会政治、キリスト教倫理については

センシティブになりがちです


先々に 様々なパターンを想定して

勝手に思い悩むことが

結構あります




「あらゆる残酷な空想に耐えておけ」


10代の頃に出会った このフレーズが

長年、奉仕者としての「座右の銘」となっていました




そのことを

かつては 責任感、危機意識の表れ

と 捉えていたんですが

ナウエンの次の言葉に触れて

それは、ただの個人主義的な ヒロイズムの表れに過ぎないことを

知りました


神学校で私は、牧会の働きは、本質的に個人的な務めだと信じさせられる教育を受けました。それがために、十分な訓練を受け、整えられる必要がありました。そして六年間の期間が終わると、説教、秘跡の執行、カウンセリング、教区の運営のための十分な教育を受けた者とみなされました。私は、まるで大きなリュックを背負って、長い長い徒歩の旅に出る者のようでした。そのリュックには、途中で出会う人々が必要とするすべてのものが詰まっています。問いに対しては答が、問題に対しては解決が、人の痛みに対してはそれを癒す薬が入っています。ですから、ただ自分の扱う要件が、この三つの内のどれに該当するかを知ってさえすればよいのです。
 年月を経るにつれ、事はそれほど単純でないことに私は気づきました。...

イエスの御名で』pp.53-54より


クリスチャンの指導者は、ただ単にこの時代の急を要する問題に精通している、というだけであってはなりません。そのリーダーシップは、受肉したことばであるイエスとの絶えざる、親密な交わりに根ざしていなければなりません。

イエスの御名で』p.47より




思考実験を繰り返しによって

背中のリュックを膨らませることも

悪くはないですが

それが

イエスとの親密な交わりと統合されなければ

むなしいですね...























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