割と
「どっちでもいい」「どうでもいい」
と片付けられる領域は広い方ですが
聖書解釈、教理理解、教会政治、キリスト教倫理については
センシティブになりがちです
先々に 様々なパターンを想定して
勝手に思い悩むことが
結構あります
「あらゆる残酷な空想に耐えておけ」
10代の頃に出会った このフレーズが
長年、奉仕者としての「座右の銘」となっていました
そのことを
かつては 責任感、危機意識の表れ
と 捉えていたんですが
ナウエンの次の言葉に触れて
それは、ただの個人主義的な ヒロイズムの表れに過ぎないことを
知りました
神学校で私は、牧会の働きは、本質的に個人的な務めだと信じさせられる教育を受けました。それがために、十分な訓練を受け、整えられる必要がありました。そして六年間の期間が終わると、説教、秘跡の執行、カウンセリング、教区の運営のための十分な教育を受けた者とみなされました。私は、まるで大きなリュックを背負って、長い長い徒歩の旅に出る者のようでした。そのリュックには、途中で出会う人々が必要とするすべてのものが詰まっています。問いに対しては答が、問題に対しては解決が、人の痛みに対してはそれを癒す薬が入っています。ですから、ただ自分の扱う要件が、この三つの内のどれに該当するかを知ってさえすればよいのです。
年月を経るにつれ、事はそれほど単純でないことに私は気づきました。...
『イエスの御名で』pp.53-54より
クリスチャンの指導者は、ただ単にこの時代の急を要する問題に精通している、というだけであってはなりません。そのリーダーシップは、受肉したことばであるイエスとの絶えざる、親密な交わりに根ざしていなければなりません。
『イエスの御名で』p.47より
思考実験を繰り返しによって
背中のリュックを膨らませることも
悪くはないですが
それが
イエスとの親密な交わりと統合されなければ
むなしいですね...
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