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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

良い知らせ 福音(コリント人への手紙第一15章)

時々

「あの伝道メッセージはなっていない!

 全く罪が語られていなかった!

 あれでは 福音を薄めてしまう!」

と 怒られる方を

見かけることがあります




たしかに

「福音を薄めること」は

問題です


御言葉を不当に扱うことは

恐るべきことです




けれども

何をもって

薄めているか否かを判断するのでしょうか?


何が

不当か正当かを判断する基準と

なるのでしょうか?


例えば

神の創造

キリストの十字架と復活と

死後のいのちについて さえ語っていれば

福音を薄めたことには

ならないのでしょうか?







福音の要約が記されている箇所として

よく開かれる箇所に コリント人への手紙第一の15章の御言葉があります


兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

コリント人への手紙第一15:1-4


多くの場合

引用は ここで 終わります


長くても15:11まで でしょう




しかし

「宣べ伝えた」と訳されているεὐαγγελίζομαι が

王の勝利と統治と関わる ことだとしたら

ここで止めるのは はやすぎます


また

「福音」と訳されているεὐαγγέλιον(euangelion)という言葉の用例からも

同じことが言えます


旧約において

εὐαγγέλιονは

εὐαγγελίζομαι と共に用いられている以下の箇所を除けば

(サムエル記第一31:9, サムエル記第二1:20, 4:10, 18:19-20, 18:26, 18:31, 列王記第一1:42, 歴代誌第一10:9)

列王記第二7:9のギリシャ語訳で用いられています


彼らは互いに言った。
「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの(H1309)日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」

ここでも

「良い知らせ」は

敵(具体的にはアラム)の敗北を指すものとして

用いられています




これらのことを踏まえると

コリント人への手紙第一15章は

少なくとも(少なくとも!)15:28までは

区切りを設けられないことが

わかります


それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

コリント人への手紙第一15:24-28







ただ

「ここまで話してはじめて「福音」でしょう?」

なんて 言いますと

「こんな 難しいことまで 話していたら

 求道者が耳を閉ざしてしまう!」

という 反応が返ってきそうです


たしかに...

その心配はあります...


私も ここまで聞き手の興味を保てる自信は

あまりありません...(情けない!)




けれども

「求道者は聞いてくれないはず!」と決めつけて

福音の一部を省いてしまうなら

福音を薄めて 耳障りの良いことだけを話す方々を

(何処におられるのかはわかりませんが...)

非難できなくなります...orz







福音の再発見』が出版されてから

「このような 福音理解では 伝道メッセージは語れない!」

という意見が語られるのを

何度か見聞きしましたが

「語れない」からこそ

「どう語っていくか?」を

もう一度

真剣に話し合っていければ良いのではないかと思っています


福音宣教のための協力が

語り方の修練の面でも必要なのです

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