聖書を学ぶ時に
英語の表現が
必ずしも
参考になるとは限りません
かえって 混乱を招くことも
少なくありません
(イザヤ書9:6の"counselor"などはその典型でしょう)
しかし
「伝道」という言葉に関して言えば
英語の用語を知ることは
とても役に立ちます
英語では伝道は"evangelism"と言います
ご察しの通り、これはギリシア語のεὐαγγέλιον(euangelion)から
派生した言葉です
伝道する
とは
英語においては(本来)
特定の決心を迫ること というより
「福音化する」ことなのです
(その語源がどれほど意識されているかは謎ですが…)
このevangelismという用語自体は
おそらく聖書には用いられていないでしょうが
同様の捉え方は聖書にも見られます
新約聖書では
εὐαγγέλιονという名詞とともに
εὐαγγελίζομαι(euangelizomai)という動詞が
用いられています
有名なコリント人への手紙15:1-2には
以下のようにありますが
ここで「宣べ伝えた」「伝えた」と訳されているのが
このεὐαγγελίζομαιです
パウロは
ここで
「良き知らせを伝える」という動詞εὐαγγελίζομαιを
「良き知らせ」福音という目的語と共に用いているのです
(この「馬に乗馬」「アメリカに渡米」のようなくどい表現は聖書にしばしば見られるものです)
それでは
このεὐαγγελίζομαιは
聖書の世界において
どのように用いられてきたのでしょうか?
(ヘブル語で記された)旧約聖書のギリシア語訳、七十人訳聖書において
εὐαγγελίζομαιは
主に「戦勝を告げる」という意味合いで
使われていました
彼ら(ペリシテ人)はサウルの首を切り、彼の武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地の隅々にまで人を送り、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた(H1319)。
サムエル記第一31:9
何とも悲しい例文で申し訳ない限りですが(笑)
ここで告げ知らせると訳されているבשׂר(bsr)の訳語として用いられているのが
εὐαγγελίζομαιなのです
また
サムエル記第二1:20, 4:10, 18:19-20, 18:26, 18:31, 列王記第一1:42, 歴代誌第一10:9などでも
同様のニュアンスで
εὐαγγελίζομαιが使われています
そして
有名なイザヤ書40:9, 52:7, 61:1
加えて60:6も
このことを踏まえて解釈する必要があるでしょう
シオンによき知らせをもたらす者よ、(あの)高い山に登るのだ。エルサレムによき知らせをもたらす者よ、精一杯の声を上げるのだ。おまえたちは(声を)上げるのだ。恐れてはならない、ユダの町々に告げるのだ。「見よ、われらの神を」と。見よ、主は力を帯びて来られ、(その)腕は隆々として力を帯びておられる。見よ、そのかたの報酬はその方とともに(あり)、その方の働きはその方の前にある。
40:9-10『七十人訳ギリシア語聖書 イザヤ書』
山々の上の春の季節の(到来の)ようにして、平和の到来というよき知らせを宣べ伝える者の足音のようにして、よきことを宣べ伝える者のようにして。わたしは、おまえの救いについて(人びと)に聞こえるようにし、「シオンよ(これからは)おまえの神が王として支配する」と、言う。
52:7
おまえは目を上げて周囲を見回すのだ。見るのだ、おまえの子らが集まって来た。見よ、おまえのすべての息子たちが遠隔の地からやって来た。おまえの娘たちは肩車されてやって来る。そのときおまえは(それを)見て恐れ、心中、仰天する。海と異民族と諸国民の富がおまえのものとなるからである。おまえのもとへは駱駝の群れが行く。ミディアンとエファの駱駝が(多すぎて)おまえを覆い隠す(かのようだ)。これら(駱駝の隊列)はどれもシバからやって来るもので、黄金(G5553)を運び、乳香(G3030)を携えている。彼らは主の救いのよき知らせをもたらす。
60:4-6
主の霊がわたしの上に(ある)。主がわたしに油を注がれたからである。主はわたしをお遣わしになった。貧しい者たちに良き知らせをもたらし、傷心の者たちを癒し、囚われた者たちに解放を、盲いの者たちに開眼を告げ、主が受け入れられた年を報復の時と宣告するために、(また)嘆き悲しむ者たちすべてを慰めるために。
61:1-2
ここでは「戦勝」という意味合いは前面には出ていません
しかし
「平和」「復讐」「報復」「解放」という言葉から
良き知らせは「平定」と関わることを読み取ることが出来ます
また40:10や52:7からは
神の統治、王としての支配の開始が
良き知らせであるということも
知ることができます
ナホム書1:15においても
同じεὐαγγελίζομαιが
敵の敗北と結びつけられています
見よ、山々の上に、よき知らせをもたらし、平和を告げ知らせる者の足(音)は。ユダよ、おまえはおまえの祭りを祝い、おまえの誓願を果たすのだ。彼らが、(おまえたちを)組み伏せようとして、(おまえの所を)侵入することは二度とないからである。
ナホム書1:15『七十人訳ギリシア語聖書 十二小預言書』
敵が二度と侵入することがないことが
良き知らせなのです
エレミヤ書20:15では
誕生を知らせる動詞として用いられていますが
これは、珍しい例でしょう
つまり
旧約聖書に親しんでいた新約聖書の著者と読者にとって
εὐαγγελίζομαιとは
王の到来と王の勝利を告げ知らせるものだったのです
「(旧約)聖書に書いてあるとおりに」になされたキリストの福音を理解し
その福音を伝えるためには
背景として
このことを理解しておかなければいけません
というのも
キリストは他でもない油注がれた方、王だったからです
(以前も紹介しましたが)
以上のことを踏まえた上で
この↓動画を見るならば
「福音」について、より理解が深まることでしょう
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