私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
コリント人への手紙第一15:3-4
この箇所には
「聖書の書いてあるとおりに」キリストは死なれ、葬られ、よみがえられた
と ありますが
(言うまでもないことですが)
この「聖書」は新約聖書、福音書ではありません
マクナイトも指摘しているように
この手紙は、多くの学者が
最も古いテキストだと考えているものです
このことが記された時
他の新約文書は存在していませんでした
ですから
この「聖書」とは
他でもない「旧約聖書」を指します
それでは
旧約聖書のどこに
キリストの死と埋葬と復活について
記されているのでしょうか?
その候補として
しばしば提案されるのは
詩篇16:10-11です
あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に 滅びをお見せにならないからです。あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。 満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。
使徒の働き2章で
ペテロは この箇所を引用し
次のように述べています
「...兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」
使徒の働き2:29-32
同じように
ペテロが引用している詩篇110:1も
主は 私の主に言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」
ただ
このように
一対一の関係で
旧約の言葉と
キリストの死と復活を結びつけるよりも
旧約全体が
このことを予表していたと
考える方が より自然でしょう
ルカの福音書24:25-27
また
24:44-49には
次のようにあります
そこでイエスは彼らに言われた。
「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
そしてイエスは言われた。
「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
この捉え方は
マクナイトの述べていることと
重なるものでしょう
そこから(コリント人への手紙第一15:3-5, 15:20-29)は、イエス・キリストの福音の物語は聖書(私たちにとっての旧約聖書)に見られるイスラエルの物語を完成、完結させるものであることが分かる。ここで用いられている重要な言葉は、「聖書の示すとおりに」だ。使徒の福音とは、「聖書が示すとおりに語るイエスの物語」なのである。…
… パウロの福音が、さらに言うなら初期のキリスト教の福音が、聖書に根ざしていることは間違いない。
ということは、イエス・キリストの物語とは、モルモン経典のように、どこからともなく現れた物語とは違うのだ。プラトンの哲学的な叙述のように、時間とは無関係の概念の集大成とも違う。イエス・キリストの物語は、一つの民族、一つの歴史、一つの聖書の中に、がっちりと組み込まれているのである。その物語は、イスラエルの物語のあとに続き、それを完成させるときにこそ、意味を成す。…
… 「福音」とはイスラエルの物語を成就し、完成させ、完結させるイエスの物語である。したがって、抽象的な物語性を失った、「救いの計画」のいくつかのポイントなどのようなものに、断じて縮小してはならないのだ。
『福音の再発見』p.65-67より
それでは
キリストの死、埋葬、復活、昇天、着座が
「聖書に書いてあるとおり」のものであり
イスラエルの物語を成就し、完成させ、完結させるものであるとするなら
「福音理解」にどのような違いをもたらすのでしょうか?
端的に言いますと
このことは
福音に 広がりを もたらします
旧約聖書で 語られてきた壮大な計画のクライマックスが
イエス様の生涯であり
その十字架、復活、昇天が
旧約聖書に示された諸々の希望を
成就するものであるならば
この福音は
旧約聖書全体の豊かさを
持ち合わせたものだと言えるでしょう
N・T・ライトは
この15:3-8について 以下のように解説していますが
これは、ここまで見てきたことをまとめてくれるものです
異教徒に対するパウロの福音が人生哲学でないことは明らかです。それは、どのように救われるのかという教理でもありません。福音は事実の一覧なのです。もちろんそれは解釈されていない事実ではありません。そんなものは存在しないからです。それは出来事の一覧であり、それらの出来事の意味をはっきりさせる枠組みの中に収められたものです。異教世界は、ナザレのイエスに関する奇妙な出来事にどう対処するのでしょうか。答えは、こうです。それらは、単なるユダヤ人の不思議な事件ではなく、全宇宙に対する創造者の計画の成就である。これからの議論の中で明らかになっていきますが、創造者がイエスを通して、どのように全世界の主になったのかという話です。パウロがイエスの死と復活を理解し、解説したユダヤ教的枠組みは、もちろん黙示的です。つまり、これらの出来事が宇宙規模の重要性を持っているということです。これこそが異教徒に対する良い知らせです。世界の創造者が悪と死を打ち倒し、世界がご自身のものであると宣言することによって、すべてのすべてとなるのです。
『使徒パウロは何を語ったのか』p.172より
このように
スケールの大きい福音の提示がなされるならば
その応答も
当然 違ってくるはずです
これほどの深みと重みのある福音を
ひとときに語り切ることは出来ないにしても
私たちの伝道と行動が
この福音を浅薄なものにし 矮小化しないことを 願います
目先の「成果」のために
御言葉の真理を損なうことがありませんように...
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