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「ブラザレンについての諸断章」を読む5

更新日:2019年7月15日

こうゆうブラザレンの初期のリーダー達の状況を見ていると、彼らが非常に聖書に詳しい理由が分かります。特に、高学歴の人々が多く、それが初期の指導者になったということは、後にまた引用しますが、ブラザレンが現代の日本やアメリカ社会で想定されるような民主主義的な志向性を持った運動ではなく、階級社会を背景にしつつ貴族やジェントリー階級(紳士階級)が中心的な役割を一定程度はたすことが、そもそも内在的にあった可能性があるように思います。(イギリスは、やはり階級社会ですし、1830年代は現在よりもその傾向がかなり強いと思います。)



私が「ノブリス・オブリージュ」という思想に初めて触れたのは

機動戦士ガンダムF91を通してでした


べラ・ロナ「でもお祖父様のおっしゃる貴族主義でも、差別は生まれるのでしょう?」
マイッツァー・ロナ「高貴な者が持たねばならぬ義務というものがあってな」
べラ・ロナ「はい。」
マイッツァー・ロナ「例えば、戦場でも、一般庶民たちは怖いと言って逃げ出しても良いが、尊き者 貴族は血を流すことを恐れてはならず、先陣に立たなければならない。」
べラ・ロナ「人は平等ではない...」
マイッツァー・ロナ「人権は平等だが、同じ人間は二人といないのだ。そして何よりも、人
類と世界を治めるのは、自らの血を流すことを恐れない高貴な者が司るべきなのだよ。」



大衆を見下すマイッツァーの言葉には反発を覚えましたが

しかし

同時に

いきすぎた平等主義の弊害について 意識するようになりました




たしかに

どれほど「平等」の価値を声高に主張しても

経済状況や教育機会の格差は 消滅することはありません


また

個人の関心、資質、持ち味には違いがありますので

取るべき立場や役割は異なってくるでしょう


逆に

「平等」の名のもとに

「画一化」が押しすすめられる危険も

侮ることはできません




このことを考える時に思い出すのは

リチャード・ボウカムの世界を紹介した『人生を聖書と共に』という書物です


この本には 彼の簡単な自伝が記されているのですが

ここを読んだ時に

彼の受けてきた教育、訓練と

日本のキリスト教界、そして社会のそれが

あまりにもかけ離れていることを痛感しました


ボウカムは

大学に入学する前に平気で聖書言語を使いこなしていたそうですが

そんな彼に

大学を卒業し、神学校に入って初めて原語を学び直す日本人は

到底太刀打ちできません

(そもそも張り合う必要はありませんが笑)


同じことは

アリスター・E・マクグラス著『宗教教育を語る イギリスの神学校はいま』を

読んだ時にも感じました




このような開きは

単に教会の意識の問題だけではなく

国家と国民の学校教育に対する考え、価値観からもくるものだと思います


全体的なボトムアップを重視する日本では考えられないことですが

英国では、本人の現実に合わせて

初等教育を始める年齢を親が決められるそうです


きっと「適材適所」という言葉の捉え方が

両国では随分違うのでしょう




また

ご存知の方にとっては当たり前のことかもしれませんが

ボウカムやマクグラスが属する英国国教会

民主主義的な会衆制を取ってはいません


むしろ

大主教、主教、司祭、執事と

役職には序列があり

管理運営区域も

管区、教区と

段階的に分けられています


自由教会の伝統に育った私にとっては

正直に言って この組織体系には違和感を覚えます


しかし

制度的にも、社会的にも

責任を持つべき領域

果たすべき役割が明確になっているからこそ

ボウカムやマクグラスのような傑出した人材が

輩出されていったのだろうなとも思います




もちろん

英国と日本では

歴史も社会状況もかなり異なっていますので

日本の教会が英国のようになる必要はないでしょう


けれども

そのコンテキストの違いを無視して

あちらの実践をそのまま輸入しようとしたら...

深刻な齟齬をもたらしてしまうことでしょう




Meitzer Ronah













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