この本を読んで
かつて 自分自身が経験した衝撃を
思い出していました
それは
「神学的挫折」とも
表現できるものです
いわゆる「神学」と呼ばれるものに触れ始めて間もなく
知らされた ジョッキングな事実が二つありました
(いや、実は もっとたくさんありましたが 今日は二つだけ…)
一つは 聖書の著者に関するもの
もう一つは 礼拝のあり方に関するもの です
一つ目については
聖書の記述の信頼性にまつわるものです
新約聖書には たくさんの書簡、手紙が含まれていますが
その多くのものには
差出人、書き手が明示されています
しかし
その言葉を そのまま受け止めないクリスチャンがいる
ということを 初めて知った時
素直にびっくりしました
パウロの手紙を
「真正パウロ書簡」と「第二パウロ書簡」に分け
後者を パウロ自身のものではなく
後継者、追随者の産物と捉える
それが ありうる「学説」
いや「定説」と 受け止められることに感じた違和感は
なかなか 言葉に言い表すことの出来ないものです
二つ目は
私の育った教会の伝統の再考を促すものでした
brethrenの流れをくむ日本の「諸集会」の「礼拝」では
その中心に「パン裂き」聖餐が置かれています
そのこと自体は 決して特異なことではないでしょう
しかし
「礼拝の時間に パン裂きの他は 祈りと賛美しかなされない」
と説明しますと…
いつも 多くのクリスチャンに驚かれます
「主の祈りは? 使徒信条は?
え…
…というか説教は?」
と 立て続けに質問された経験が
何度かあります
が…
私は
「主の祈り」「使徒信条」といった用語さえ
大学生になるまで知りませんでした
まして
礼拝のなかで「説教」がなされないことに
疑問を感じたことも ありませんでした
何故なら
自分たちのスタイルが
「使徒の働き(2:42)に示されている初代教会の実践を
忠実に守るものだ」
と 教えられていたからです
振り返ってみると
当時は
「他の教会は 礼拝に不必要なものを付け加えている」
と 考えていたのだと思います
しかし
新約聖書の 特に 使徒の働きの歴史的背景を学ぶ中で 教えられたのは
自分自身が 聖書の意図を 汲み取れていなかったということです
初代の教会は
その集まりにおいて
聖書の朗読と解説と勧めを重んじていました
『新約聖書の礼拝』にはこのように記されています
使徒言行録二章のペトロのペンテコステ説教の後に、回心した人々が洗礼を受けて入信した後の生活として、次の二組ずつ二つの計四つの要素が指摘されている(使徒二・四二)。ルカ文書では最初期のエルサレム教会は理想的に描かれる傾向があるが、エルサレム教会伝承などの何らかの伝承を用いて、ここではエルサレム教会の重要な礼拝の要素が指摘されている。
①「使徒たちの教え」②「交わり」③「パン割き」④「祈り」
第一、「使徒たちの教え」とは、十二使徒の代表であるペトロと異邦人の使徒パウロらの「教え」、とりわけイエス・キリストの「死・復活」の証言による「教え」を指している。それは旧約聖書に基づいて勧めの言葉を述べるユダヤ教の会堂の説教の方式に由来し、イエス・キリストの死と復活に関する旧約聖書の箇所に基づいて、その意義を説明して悔い改めを勧めるものである(使徒二・一四-四〇、三・一一-二六、四・八-一二、一九-二〇、一三・一六-四一、他)。…
pp.47-48より
これは 歴史的記録に基づく推論ですし
後の教会歴史も
この見方と調和しています
この事実に触れ
自分自身がずっと誤解していたと気付かされた時
とても戸惑ったのを覚えています
諸教会が「不必要なもの」を付け加えていたのではなく
私たちが かつてあったものを取り除いてしまっていたというのですから
動揺するのも 当然のことです
さて
それから
私は どのような歩みを
辿ってきたのでしょうか?
ある意味 当たり前のことですが
あの「衝撃」は和らいでいます
それは 時の経過によるものもありますが
同時に
もっと多様な 見解に触れてきたからでもあります
学びを進める中で教えられたのは
パウロの手紙の著者性を疑う決定的な証拠はないということです
「第二パウロ書簡」という捉え方は
「有力な学説」と見なされているものでしかなく
歴史的資料に裏打ちされたものではないことを知り
個人的には あまり気にならなくなりました
一方の礼拝のあり方に関しても
地域や文化によっても
かなりのバリエーションがあることを知り
性急な判断をしないようになりました
けれども
神の言葉によって生み出され
神の言葉によって新しく生まれたクリスチャンとして
その集まりの中心に
神の言葉を据えることは
自然なことだという確信は深まってきています
一般の教会では
聖書朗読よりも説教に
多くの時間が割かれていますが
それは 果たしてふさわしいのだろうか?
という 思いも抱いています
私自身は どちらの分野も「専門家」ではありませんし
そもそも 実行力のあるタイプではありません
ですから
声高に「改革」を叫ぶつもりはありません
ただ 今もなお途上にある者として
これまでの足取りを 忘れないために
ここに 書き留めておきたいと思います
【関連書籍】
ウィリアム・ウィリモン著『言葉と水とワインとパン』
H・O・オールド著『改革派教会の礼拝』
山崎順治著『礼拝の守り方』
杉本智俊著『これだけは知っておきたい聖書の考古学 新約』
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