…五月八日、ドイツが降伏しますが、これは首都ベルリンにソ連軍が侵攻、ナチス政権が壊滅するなかで、条件なし、勝者の要求をすべて敗者が受諾することを約した「白紙委任型」の無条件降伏でした。しかし、その混乱は地獄絵といってよく、報告を受けたスティムソンは「はげしい戦慄を覚えた。それは、もっとも強力にして効率のよい国家の破滅である」と記しています。つまり、ドイツ型の「無条件降伏」は回避すべき負のモデルだという認識が、米国上層部に生まれたのです。
こうした局面で、日本の早期降伏のために尽力したのがグルー国務長官代理でした。
五月二十八日、グルーは天皇制の容認を含む「大統領の対日声明」案をもって、国務省幹部会に臨みますが、「議会の支持を得られない」「ルーズベルト路線への裏切りだ」との猛反発に遭い、孤立します。そこで議論を打ち切り、大統領にこう直接訴えたのです。
「われわれが『無条件降伏』を訴え、軍事手段だけで押していく場合には、日本人は最後の一人まで戦うでしょう。……彼らの面子を重んじ降伏を可能にするため、天皇制の容認を含む処遇を示すべきです。……大統領、おびただしい犠牲を回避すべく、対日声明を出すべきではないでしょうか」
「私もその線に沿って考えている。ただし戦争終結は外交と軍事の双方に関わるので、軍の指導者が同意するなら、対日声明を出そう」…
…トールマン大統領の了解を得て、一九四五年七月二六日、「ポツダム宣言」が発表されました。その文面には、「無条件降伏」という公約を破棄したと見られたくはなかった米国側の事情を反映し、「日本国家」ではなく「日本全軍隊」の「無条件降伏」が記されています。「白紙委任型」の無条件降伏を強いられたドイツが、中央政府を否定され、連合軍による直接統治を余儀なくされたのに対して、日本は、「ポツダム宣言」に列記された条件に同意した「勝者の条件の、敗者による無条件受諾」だといえるでしょう。占領政策は天皇を含む日本政府を通じて実施されることになりました。
五百旗頭真「ポツダム宣言 昭和20年(1945) 日本は「無条件降伏」ではなかった」『大人のための昭和史入門』文藝春秋, 2015. pp.177-9より
「無条件降伏」だったのか?
それとも
「条件付降伏」だったのか?
正直に言いますと...
あまり 関心の無いテーマです
どちらにしても
無謀な戦争に突き進んでいって
完膚無きまでに 叩きのめされた事実は
変わらないからです
また
白紙委任型の無条件降伏をしたドイツより
日本の方が、善戦したとも
決して言えません
しかも
日本が手にした「条件」も
獲得したもの というより
占領する側の都合の故に
許容されたものにすぎませんでした
加えて
その「条件」も
結果的に空虚なものとなった
と 半藤一利は述べています
結果論でいえば、天皇の身柄の安全、皇室の安泰の確保という点からは、八月十五日の日本の降伏は、決して無条件ではなかった。政府が要望した一条件は見事に容れられたのである。
聖断と第二の敗戦
しかし、厳密な意味で「天皇の国家統治の大権」が変更されることはなかったのであろうか。はたして国体は護持されたか。本来、護持すべき国体とは憲法にある天皇の国家統治の大権のことである。…
…この天皇主権の三条を中心に、立法(第五条)、司法(第六条)、行政(第十条)、軍事(第十一条、第十二条)、宣戦・講和(第十三条)などが規定されている。これが国民の護持すべき国体ということなのである。
ところがどうであろうか。
昭和二十一年二月二十二日、時の幣原喜重郎首相が「主権在民と戦争放棄は、GHQの強い要求です。憲法改正は憲法原案にそって立案するよりほかにない」と閣議で提議し、これを閣僚は全員一致で承認する。
この報告をうけた昭和天皇も言った。
「最も徹底的な改革をするがよい。たとえば天皇自身から政治的機能のすべてを剥奪するほどのものであっても、全面的に支持する」
もう一説に、キッパリと天皇は、
「自分は象徴でいいと思う」
と断を下した、という話もある。
このふたたびの聖断により、新憲法は主権在民・天皇象徴・戦争放棄を基本とすることが正式に決定された。首相は、「天皇制護持のためには、憲法原案(GHQ案)を飲んで、天皇をシンボルにすることに同意したのである」とのちに語ったというが、結局は、国体を完璧には護持し得なかったことになる。
つまり、「天皇の国家統治の大権を変更」することはないように、との降伏に当たってたった一つだけ付けた条件も完全に無視されたことになる。それゆえこの二月二十二日の、八月十五日につづく「第二の敗戦」の決断があったのである。
半藤一利「20 昭和天皇 戦争責任とは何か?」『父が子に教える昭和史』文藝春秋, 2009.
つまり
「天皇制の容認」という唯一の条件も
その中身は、かなり変えられてしまったのです
それでも
この苦肉の索によって
大きな混乱を避け
無用な争いを回避できたのも事実です
「『無条件降伏』を訴え、軍事手段だけで押していく場合には、日本人は最後の一人まで戦うでしょう。」という見立ては
大げさにしても
散発的なゲリラ戦ぐらいならば起こっていたいたことでしょう
ただ
この曖昧な幕引きによって
戦争責任の問題が
宙ぶらりんになってしまったことも
否定できないのではないでしょうか?
戦時中には
「昭和天皇」の名の下に
多くの人が
捕らえられ
暴力を受け
殺され
戦死していきました
もちろん
昭和天皇が
あらゆることを許容し
指示していたわけではありません
けれども
体制に強硬に反対し
流れを食い止めることができなかった
という点では
やはり 責任があります
たとえ
国内法上の法的責任がなかったとは言え
道義的責任は逃れられないものです
にもかかわらず
生前退位さえ許されなかったのは
ご本人にとっても
不本意なことだったのかもしれません
先日中止になったあいちトリエンナーレ2019には
昭和天皇の写真を燃やす映像が
展示されていたそうです
個人的には
他人の写真を焼くことを芸術と呼ぶ神経が
理解できませんので
不快だと感じました
けれども
戦後処理の際に
棚上げにされていた課題が
くすぶり続けていることが
こういった「作品」が生み出されていく背景には
あることも 認めなければなりません
「無条件降伏」ではなかったことを
良かった 悪かった と 短絡的に判断することは出来ませんが
事を複雑にしてしまったのは 間違いないでしょうね...
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