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リチャード・ボウカム著『イエス入門』を読む2

更新日:2020年4月4日
















 当時のユダヤ人にとって肝心かなめの問いがあった。神の聖なる民としてローマ占領の状況をどう生きるべきか。ファリサイ派は儀式的清さに力点を置き、とくに食事の際に清い状態でいるように気をつけていたようだ。彼らはトーラーの清めの規定を大幅に拡大解釈し、清さを日常生活で最大の関心事とした。清さは祭司たちと神殿を訪れる一般人だけの問題だけではなくなった。ファリサイ派は、祭司ではない庶民が可能な範囲で最大限の清さを保つことを目指した。清さだけが彼らの関心事だったということではまったくない。彼らはまた、農作物の十分の一を税として納めること、安息日を守ること、神殿でのふるまいについてなどの事柄で、なにが聖なる民として求められているかということも規定していた。これらすべてがユダヤ人としての特異性で、偶像礼拝やそのほかの忌まわしいことで聖なる土地を汚す異邦人たちと神の民は異なるのだという線引きをするものだった。
 政治的無力の状況では、ファリサイ派の運動がローマ占領に抵抗するもっとも効果的な手段たりえた。それは食事、農業、家庭生活など、人々が管理できる生活の領域で聖性が強められるよう奨励した。ファリサイ派は、もうすぐ神が自分の民を異教徒の支配から救い出し、神政的な独立国を建て直すにちがいないという期待を捨てなかった。おそらく彼らの国家刷新運動は、ユダヤ人をそのような神の介入にふさわしくすることを意図したのだろう。ファリサイ派にはローマに対する軍事的反乱に関与していた者たちもいたが、ファリサイ派が全体としてどこまでそのようなやり方を良しとしていたかは不明だ。

リチャード・ボウカム著『イエス入門』pp.48-9より




パリサイ人、律法学者と聞いて

良い印象を受けるクリスチャンは

あまり いない でしょう


福音書において

彼らは

しばしば

イエス様の「敵役」として登場しますので

どうしても

「残念な集団」というイメージを抱いてしまいます




そして

そのようなイメージは

あながち 過ちではありません


というのも

イエス様も

彼らのことを

辛辣に 非難しておられるからです


わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

マタイの福音書23:23


わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

マタイの福音書23:25


わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。

マタイの福音書23:27




多少の誇張表現があるとは言え

このイエス様の評価は

正当なものです


彼らは

そのように 糾弾されるべき存在でした




けれども

イエス様だからこそ

このように断ずることが出来たという事実を

私たちは 忘れてはいけません




 パリサイ人、律法学者は

 陰険で、妬み深く、高慢で、器量の小さい人たち

 だから、イエス様にこっぴどく叱られた...


もし

そんな単純な捉え方をしているならば...

それは 危うい思い違いです




パリサイ人、律法学者は

たしかに罪人でしたが

ただただ 邪悪な動機の故に

イエス様と対立したわけではありません


箴言には

「人には自分の行いがみな純粋に見える」

「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える」

と ありますが

彼らも

彼らなりに 純粋に、まっすぐに生きようとしていたのです




例えば

パリサイ人たちがこだわった「清め」と「汚れ」の課題は

現代に生きる日本人にとっては

瑣末な事柄に思えます


けれども

彼らは決して 趣味や好みの故に

汚れから身を避けていたわけではありません


このことは

彼らにとって

民族の存亡に関わるものだったと

考えられます


レビ記18:24-28には

このように記されています

あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間に寄留している者も、これらの忌み嫌うべきことを一つも行わないようにするためである。それは、あなたがたより前にいたその地の人々が、これらすべての忌み嫌うべきことを行い、その地が汚れたからであり、あなたがたがその地を汚し、その地が、あなたがたより前にいた異邦の民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないようにするためである。

ここには

異邦の民にならって

汚れに染まってしまうなら

神の民でさえ

約束の地から吐き出されてしまう

と あります


そして

その言葉の通りに

イスラエルの家は

主の国から出されてしまいました


「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。わたしは彼らを諸国の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの生き方と行いにしたがって彼らをさばいた。彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々はの民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。

エゼキエル書36:17-20


パリサイ人、律法学者たちは

この悲惨な経験を 二度と繰り返さないために

必死になって

自分たちの身を清く保とうとしたのです




「安息日」についても 同様のことが言えます


エレミヤは

安息日を軽んじるユダ全体、エルサレムの住民に

このような警告を語っていました


は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、のことばを聞け。はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い──のことば──安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、の宮に来る。しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」

エレミヤ書17:19-27


 安息日を聖なるものとしないなら

 火は

 エルサレムの門

 エルサレムの宮殿を舐め尽くす

とありますが

この預言の通りに

エルサレムは 壊滅的な被害を受けました


そして

バビロン捕囚の後に記されたネヘミヤ記には

次のようなエピソードが記されています


そのころ私は、ユダのうちで安息日にぶどう踏みをしている者、麦束を運んでいる者、また、ろばに荷物を負わせている者、さらに、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけた。それで私は、彼らが食糧を売ったその日に、彼らを戒めた。また、そこに住んでいたツロの人々も、魚などあらゆる商品を運んで来て、安息日に、しかもエルサレムでユダの人々に売っていた。そこで、私はユダの有力者たちを詰問して言った。
「あなたがたが行っているこの悪事は何か。安息日を汚しているではないか。あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの都の上にもたらされたのではないか。それなのに、あなたがたは安息日を汚して、イスラエルの上にまたもや御怒りを招こうとしている。」
安息日の前、エルサレムの門に夕闇が迫ると、私は命じて扉を閉めさせ、安息日が終わるまでは開いてはならないと命じた。そして、私の配下の若い者の何人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにした。

ネヘミヤ記13:15-19


特に注目したいのは

「安息日を汚しているではないか。あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの都の上にもたらされたのではないか。」

という言葉です


捕囚を経験したユダの人々にとって

安息日を汚すことは

神の御怒りを招く行為に

他ならなかったのです




このように見ていくと

パリサイ人、律法学者には

イエス様を迫害する真っ当な理由があったことが

わかります


彼らの目に

イエス様が

民を再び 破滅へと突き落とす危険人物と 映ったのも

無理はないのです




そして

もし、この彼らの立場に身を置いて

マタイの福音書23章を 読み直すなら

同じ御言葉も 違って聞こえてくるはずです


イエス様の語られた一連の批判は

あまりにも厳しすぎるように

思えてきます


何故なら

彼らも

真剣に 民の将来について考え

懸命に 神のことばに従っているつもりだったからです


不純な思いを隠し持っていたとは言え

彼らが 熱心だったのは間違いありません




しかし

それでも

やはり

イエス様の判断の正しさは

覆りません


善意が あるかないかは

人の態度、人の行動を正当化する根拠とは

ならないからです




そう考えると

パリサイ人、律法学者に対する叱責の言葉は

決して他人事ではありません


私たちも

自分自身の渦巻く欲望を

神の言葉で 綺麗に飾って

偽善的に振る舞う者だからです







コリント人への手紙第一10:11-12には

以下のようにありますが

福音書に記されているパリサイ人、律法学者の姿は

単なる反面教師ではなく

まさに、「私たちへの教訓」なのだと

痛感させられます


これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

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