教派的背景の異なる書物を読むときに
犯しがちな二つの過ちがあります
一つ目は 鵜呑みにすることです
思想の歴史的文脈や 神学的枠組みを無視して
その書物で提案されていることを
そのまま 自分の教会に当てはめようとすると...
必ず 無理が生じます
二つ目は 感情的 感覚的な応答をすることです
「堅苦しい」「不自由そう...」
などの理由をつけて
その書の趣旨を理解しようとしないのは
不誠実です
特に 聖書に基づいて論じられていることに関して
聖書的な根拠も示すこともせずに
「私は そうは 思わない!」と切り捨てることは
とても恐ろしいことです
そんな態度を野放しにすると
結果的に
個人の「思う」「思わない」が
教会の判断基準に なってしまいます
そのようにして
人間的な気分や文化や慣習が
教会の運営の指針を定めるようになると
教会は
いずれ
堅苦しく 不自由なものになっていきます...
ですから
この『教会の政治 キリスト教会の礼拝』ような本を
(手本としてではなく)
鏡として 用いることで
自らのあり方を 定期的に 見つめ直すことは
健全な教会成長に 欠かせないことです
(同様のテーマを包括的に取り扱っている本なら 別の書でも構いません)
実践的な事柄ほど
実際的な必要に引っ張られるがちで
御言葉の光にさらされないことが少なくないので
自覚的、積極的に
点検に取り組む必要があるでしょう
以下に
個人的に印象に残った箇所を
引用させていただきます
6 新約における公的礼拝の性格
(1) 神中心
礼拝は、真の神を礼拝することであるので、神が常に礼拝のアルファであり、オメガであることは明白です。異教の礼拝においては、人の神への奉献が先行しますが、キリスト教礼拝においては、常に神の招きと恵みの啓示が先行し、人間がそれに応答するのです。
吉岡繁著『教会の政治 キリスト教会の礼拝』p.171より
7 聖書における公的礼拝の歴史
(3)捕囚以後
...シナゴグは、離散したユダヤ人が居住するところは何処でも設立されました(使徒6:9, 13:5, 13:14, 14:1, 17:10等)。そして、ユダヤ人が国家的政治的独立を失って後も、シナゴグは、律法を中心とするユダヤ宗教的共同体の中心でした。シナゴグは、長老会議によって統治されましたが(ルカ7:3-5参照)、彼らの中から会堂司(使徒18:8。時に複数形、マルコ5:22)が選ばれたと考えられます。会堂司は、礼拝の司会をし、自ら説教しました。また適当な人に祈祷、聖書朗読、勧めを依頼したり、許可したりしました(ルカ4:16, 使徒13:15)。
...
(4)イエスの時代
イエスの時代、公的礼拝はシナゴグで行われるとともに、神殿における礼拝もこれと並行して行われていました。イエスは、その地上生涯の間に、新しい礼拝の様式を造り出されるということはありませんでした。イエスはエルサレムにおいて、日々神殿において教えられるとともに(マルコ4:49)、シナゴグの安息日礼拝に出席され、またそこで説教されることによって、シナゴグにおける公的礼拝の正統性を承認されたのです(ルカ4:16)。
同書 pp.178-179より
10 公的礼拝の諸要素(一般)
(2) 祈祷
...牧会的祈祷は、説教の前になされるのが普通です。司会者は、会衆を代表しているのであって、個人祈祷ではありません。祈るのは会衆全体です。個人的事情に左右されないで教会全体の祈りであるように、この祈りのためには特に準備が必要です。そして、牧会的祈祷には、頌栄、感謝、罪の告白、罪の赦しの祈願、その他の祈願、執り成しなどの諸要素が包括的に含まれるべきです。
...
礼拝の祈祷にはもう一つ、式文祈祷と自由祈祷という問題があります。祈祷文を用いることの利点は、個人的要素に左右されない客観性があり、その祈りの言葉の選択と精神において、教会が世々積み重ねてきた経験と知恵が美しく表現されているということです。また、その欠点は度重なる反復による形式化であり、聖霊の導きによる自由を抑圧してしまうということです。自由祈祷はこれに対して、聖霊の導きに応じる全き自由をもつが、祈祷者の人間的弱さに左右されやすいものです。祈祷文に拘束されない自由祈祷の立場に立つ教会は、式文祈祷と自由祈祷の長所・欠点をそれぞれ勘案して、自由祈祷の場合にも、祈祷を思いつきによる即席なものとせず、周到な準備を心がけなければなりません。聖霊の自由なる導きは、決してゆきあたりばったりの無準備というものではないはずです。
同書 pp.193-194より
【関連書籍】
山崎順治著『礼拝の守り方』
山田耕太著『新約聖書の礼拝 シナゴーグから教会へ』
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