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吉田隆著『カルヴァンの終末論』
















昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。

伝道者の書1:9-10




上記の御言葉は

キリスト教史を学ぶ時に

繰り返し 思い起こす箇所の一つです




これまで聞いたことのなかった教えに触れる時

私たちは

「これを見よ。これは新しい!」

と 感動し 興奮します


けれども

少し 冷静になって 歴史を辿ってみますと

そのことは

私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだったと

気付かされることが しばしばあります







例えば

10代の頃の私にとって

社会や政治との関わりについて

聖書から 論じるクリスチャンに出会ったことは

衝撃的なことでした


 神様に背く世からは

 出来るだけ身を避けて

 「信仰的な事柄」だけに集中すべき

と ぼんやり信じていた私には

『ローザンヌ誓約』に記されている以下のような教えは

「斬新」に思えました


...私たちは、罪と不義の存在するところでは、いずこにおいても、勇断をもってそれらを告発しなければならない。人がキリストを受け入れる時、その人は再生して神の国に入れられるのであり、この不義の世界の真只中で、ただ単に神の正義の何たるかを鮮やかに示すのみでなく、それを押し広めて行かなければならない。私たちが主張する救いは、私たちの個人的責任と社会的責任の全領域において、私たち自身を変革して行くものである。行いのない信仰は死んだものである。

「第5項 キリスト者の社会的責任」『ローザンヌ誓約』より


...私たちは、人間がこの地上に楽園を建設できるという考えを、高慢な自己過信に基づく夢想として拒否する。私たちキリスト者の確信は、あくまでも神がみ国を完成なさるということである。ゆえに、私たちは、正義が住み、神が永遠に支配されるところの新天新地の出現するかの日の到来を熱心に待ち望む。こうした状況の中で私たちは、私たちの全生活に及ぶご自身の権威に喜んで服しつつ、キリストと人々ヘの奉仕のために、献身の念を新たにするものである。

神の国の完成という終末的希望が

私のこの地上での生き方 社会的責任の取り方を 方向付けるなんて

それまでも考えたこともありませんでしたので

このことを学んだ時

新しい領域に 足を踏み入れたような気になりました




けれども

後になってから

 それは あくまで個人的な感覚であって

 キリスト教界全体が

 未知の世界に入っていったわけではなかった

と 知りました


『ローザンヌ誓約』は

開拓すべき新境地を指し示したのではなく

歴史的教会の思想と実践の 整理と言語化をしたのです







今回

ふと気になって『カルヴァンの終末論』を

読みましたが

やはり冒頭の御言葉が 思い出されました




カルヴァンは1564年に召されています

(これは日本で言うと安土桃山時代より昔のことです)

ですから 没後400年以上が過ぎています


けれども

今でも なお 彼から新しく学ぶことができます


この本には

彼の「キリストの王国」理解について

次のようなことが記されています


(1) 漸進性
第一に、カルヴァンが抱いていた「キリストの王国」の幻は、絶えず終末の完成を目指して前進を続けるということである。完成を目指すとは、そこに絶えざる進展があり、成長があり、改革があるということである。別に言えば、そこには聖化の業が必然的に伴うということにほかならない。このことは個人的のみならず社会的にも言えることである。カルヴァンはイザヤ書35章の注解(1559年版)で、キリストの王国の賜物としての贖いについて述べ、それは各々の人生の旅路の終わりに至るまで完成しないのであるから、信仰者はただ救われたということだけで満足しないで絶えず神の教会に住まい、そのゴールに向かって日々成長を遂げるべく全力を注がねばならないと述べている。とはいえ、このことは、終末への恐れや不安から人々を善行へと駆り立てる中世的な「キリストの王国」思想とは根本的に異なる、キリストの福音の支配である。別言すれば、そこに依然として中世以来の社会的枠組みが維持されているとしても、福音に生きるキリスト者はこのキリストの王権への感謝に満ちた積極的服従に促されるものだと言われる。
 この漸進的王国観は、社会的には、この世の統治を否定も絶対視もしないというように機能する。ミカ書4章3節の講義(1559年)でカルヴァンは、キリストの王国が完成への途上にある(すなわち罪人が満ちている)というまさにその事実のゆえに剣が必要なのであり、それは世の終わりまで続くと論じて、政治的統治不要論の再洗礼派を退ける。他方、そのことは同時にいかなる政治的体制をも絶対視しないことを意味する。また、イザヤ書9章7節の注解では、この世の政治的統治とキリストの統治との比較をしながら、地上の国にとって公平と国民の幸福が最も重要であるとすれば、まさにキリストの王国こそが最良の統治モデルであろうとのべている。

吉田隆著『カルヴァンの終末論』p.237-238より




 社会は 信者と共に

 未だ聖化の途上にある


 キリストの王権は すでに 現世に及んでいるが

 未だ 最終的な完成は見ていない


このバランスのとれた捉え方は

『ローザンヌ誓約』の世界理解を

先取りしているものだと言えます

(全く重なるわけではないでしょうが...)


しかも

同書には

カルヴァンの置かれていた政治的状況について

「亡命者として辿り着いたスイスの自由都市で

 雇われ教師・牧師として街の権力者との確執の中で

 教会改革を推し進めねばならなかった」と

記されています


一度 ジュネーブから追放されたこともあった この彼が

それでも

政治的態度において

極端に振れなかったのは

あくまで 彼が

聖書にこだわり続けた学者だったからなのでしょう







当然

釈義的営みも 教理研究も

聖化されるべきものですから

絶えざる成長と進展と改革が

求められます


ですから

ある面では

私たちは

カルヴァンを乗り越えていかなくてはいけません


けれども

カルヴァンが

どの地点に立っていたかを知ることは

学びを積み上げていくために

有益な ことでしょう




それは

カルヴァンに限ったことではありませんが...


【関連書籍】

吉田隆著『五つの"ソラ"から

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תגובה אחת


kabopen
31 באוג׳ 2019

>当然 釈義的営みも 教理研究も聖化されるべきものですから 絶えざる成長と進展と改革が

求められます その通りです。ある数十年来の友人が、私が尊敬する先生の御言葉を聴いて、「私的解釈」と断じてきたのには、閉口しました。ある解釈方法のみがわかりやすくて、これから離れられないというのですから、やっぱり閉口です。単なる愚痴です。ご放念あれ。

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