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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

吉見俊哉 編 『知の教科書 カルチュラル・スタディーズ』
















...明らかなのは、(もしもあなたが何かの思い違いをしているのでなければ)ここで求められているのは実益でも教養でもないことである。たとえどんなに熱心にCSを学んでも、あなたは何も資格を得ることができないし、特別の教養を身につけることもできない。むしろ、CSはそうした資格を得ることや、教養を身につけること自体を問題化してしまう。そうした「資格」や「教養」を価値あるものとしている文化と権力の関係をあからさまにする。...
...つまりこうだ。CSがもしあなたの期待に何か応えていけることがあるとするならば、それはけっしてキャリアアップでも知的洗練でもなく、むしろ問いの明確化、つまりあなたが、あなた自身の日々の文化的経験を通じて感じている疑問をより鮮明にし、そうした問いが、どこから、誰によって、誰に向けて発せられるべきなのかを明らかにしていくことにおいてである。当然、この問いの再定義は実践的な次元を含んでいる。既存の社会システムを前提にし、そのなかであなたがもっと評価されるポジションに就くための実践ではなく、逆に自明視されている価値やアイデンティティに疑問符を与え、社会システムが見えなくしているリアリティの次元をあからさまにし、その言説や装置の配列を組み替えていくための実践である。...
...今日、あなたはどれほど多くの文化的経験を、あたかもそれが当たり前であるかのように受け取り、そうしたなかでもあなた自身のポジティヴな、あるいはネガティヴなアイデンティティを形成してしまっているだろうか。そのことを理解するには、わたしたちの主体が文化のなかに重層的に呼び出されていること、しかしその文化たるや、矛盾やずれを幾重にも孕んでおり、したがってそこで呼び出される主体なるものも、けっして首尾一貫したものではあり得ないことを認識しておく必要がある。CSはまず何よりも、日本文化、大衆文化、教養文化といった素朴な文化の実体論を解体し、文化的統一をめぐる自明化されたリアリティのなかに複雑なずれを発見していくところから出発しなければならない。...
...文化はけっして、何らかの一貫した原理で構成される統一体ではない。むしろそれは戦場であり、前衛的なものや大衆的なもの、ナショナルなものやグローバルなもの、本質的なものや相対的なものまでもがこの戦場でぶつかり合い、折衝するさまざまな社会戦略の重なり合いのなかで歴史的に構成されていく。したがって、文化はいつも、そのなかに矛盾や亀裂、ねじれや妥協を抱え込みながらあたかも所与であるかのように構造化されている実践的なプロセスなのである。...
...しかも、このように同じ言語、同じ表象や出来事に「多方向のアクセントの交差」を見出し、複数のぶつかりあう声へと文化やアイデンティティを開いていく実践を担うのは、その文化のなかでヘゲモニーを握っている人々よりも従属的な立場に置かれている人々であることのほうが多い。...

吉見俊哉「カルチャル・スタディーズに何ができるの?」『カルチャル・スタディーズ』p.7-10より




私が 初めて 自分の「異質さ」を意識したのは

おそらく小学校に入る前だったと思います


クリスチャンホーム出身である自分は

社会的に見れば マイノリティである と 知ってから

自分の家族や教会が

友達の目につかないよう

気をつけるようになりました




そのような「宗教的」なコンプレックスは

大学生の頃には

あまり感じなくなりましたが

今度は別の面で「異質さ」を感じるようになりました


KGKで出会った友達の「教会文化」と

自分のそれが 違いすぎて 戸惑いを覚えました


儀式、慣習、規則、組織 触れるものは

新鮮な ものばかりで

その差異を生み出す理由に 興味を覚えました




卒業後は そのKGKで働き始めましたが

雇用形態は非常勤だったため

アルバイトと掛け持ち


府内で最も偏差値の高い 私立大学を出ながらも

(どうでもいいことですが...)

コンビニで働いていたのは

人によっては 奇異に思えたそうで

クリスチャンからもノンクリスチャンからも

「既定路線から外れたんだな」

と突っ込まれたことが 何度かありました


自分自身は

全くそのことを 気に留めていませんでしたが

けれども

その立場だからこそ

見えたことも ありました


一度「外れて」みたことで

「順当なコース」を歩んでいない人は

意外といること

「王道」を進んでいる人の方が

珍しいことを

知りました




退職後 入学した神学校では

牧師を志す人たちと

机を並べて学んでいました


教える側の先生も

ほとんどが現職の牧師 もしくは牧師経験者


Brethrenで育ち

かつ主事志望だった私は

ここでも 「異質」の存在でした


おかげで

自身の identityとphilosophyが

かなり鮮明に なったように思います




その後

主事になって

母教会に戻った時には

今度は

counter culture shockを感じました


また 教会の方からも

私は「異質」に映ったことでしょう


そもそも 神学校で学ぶ慣習がない群れの中で

超教派の団体で 常勤で働く人は

当時は ほとんど いませんでした


そんな中で

文化、伝統の溝を埋めていくためには

かなり 気を使いました




そして

長年お世話になったKGKを辞め

今や 新たなミニストリーを始めています


元主事? 神学校講師?


「一体 どんな働き人なんだ?」

と 不思議がられても仕方ないと

自分でも 自覚しています







こうやって 自分の歩みを辿ってみると

トリックスターと言うほど

厄介な存在ではかったとは

思いますが(思いたいですが?)

それでも

境界線を漂う 妙な人物なのでしょう




でも

そんな自分だからこそ

考えなくてはいけないこと

深めなければいけないことが

あるのだと 思わされています


正しいエスノグラフィーの方法は知りませんが

観察、聴取の結果得たものは

忘れないうちに

小まめに書き留めていきたいですね




教養に溢れた論文を書き上げる自信は全くないですが

問題提起を投げかける気づきと知恵を

与えられるよう願っています


【関連書籍】

吉見俊哉 編 『平成史講義


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