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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

『平成史講義』を読む2

 若い人たちにとってリベラル的であるという述語は「なにかを変えようとする人たち」、保守とは「伝統的な価値観を持つ人たち」と映っている可能性があります。とすれば、既得権益(保守)をぶっ潰すという小泉話法を、民主党のようにーしかし忠実にー小声ではなく、大声で怒鳴りたて、「わかりやすい」象徴的な敵をなぎ倒していく維新や、デフレ不況と闘う姿勢を鮮明にし、「現実に即した安保体制」を目指す安倍自民が、「何かを変えよう」という意味で非保守的に映り、「革新」から受け継いだ伝統的な社会問題のテーマをとりあげつつ、経済政策について無策も甚だしく、安全保障も五五年体制のそれを踏襲している民主・民進・共産が「保守」と映ったとしても、不思議なこと、理解できないことではありません。
 こうした思考様式は、独仏的な「リベラル/ソーシャル」、アメリカ的な「リベラル/保守」、日本的な「革新/保守」の政治(学)的用語法になじんだ人たちからすれば、奇矯に映ることでしょう。たしかに学問的には「間違いです」(しかし同様に共産党を「リベラル」と呼ぶのは日本共産党的にも「間違い」のはずです)。
 しかし生まれたときから冷戦が終わっていて、日本経済がアメリカを脅かすといった記憶もなく、自民党の赤裸々な派閥政治も歴史的認識問題も知らない世代にとって、デフォルトとなっていた構造的なデフレ不況を改善し、既得権益と立ち向かい(ということになっている)、「未来志向型の」過去の清算を図る安倍政権は、「変革/未来志向」という点で「リベラル(革新的)」なのであり、デフレの放置どころか緊縮財政をよしとして、「革新」の伝統的アジェンダを踏襲する野党は「保守」的に映るのです。…

北田暁大「平成リベラルの消長と功罪」pp.206-7『平成史講義』より





こういう

「リベラル(革新的)」と「保守」の逆転現象

両者が転倒して捉えられることは

教会の中でも

あるのではないかと思います




私は政治的には いわゆる「リベラル/ソーシャル」ですが

信仰面では かなり保守的だと思っています




聖書観は 無誤性の立場ですので

(個人的には「実践的暫定的無誤性」と呼んでいます)

狭義の聖書主義だと思います


日常的に朗読することはありませんが

公同信条に表されている三位一体論 キリスト論は

遵守されるべきだと考えています


宗教改革の伝統を重んじ

繰り返し読んできましたし

小教理問答も 子供達の学びのために

用いてきました


また

宗教改革期に定式化された

歴史的文法的解釈を

実践していきたいと願っています




当然

何をもって「保守」と呼ぶかは

人それぞれでしょうが

私のような信仰者を

「偏狭」と揶揄する方はいても

「リベラル」と判断する福音派の方は

多くないと思います




けれども

教会の伝統を否定し「初代教会への復帰」を掲げる対抗運動から

生み出されてきた教会の側から見ると どうでしょうか?


キリスト教の歴史には ほとんど触れず

「信条」「カテキズム」「戒規」「礼典」

などの 用語を全く知らずに育った方々からすると

私は

新規な教えを広めようとする 非保守的なクリスチャンに

見えるのかもしれません




しかし

その捉え方を

「保守の誤用」と嘆いてみても

何も始まりません




北田暁大は同じ章の中で以下のように述べていますが

「日本型リベラル」を「キリスト教保守」に置き換えたら

そのまま 自分自身にあてはまるものですね...


社会問題が蠢く路上は、横文字っぽい「シーンとしてのストリート」とは違うのです。ドブもあれば犬の糞も煙草の吸殻も枯葉もある。そういう路上の大衆を愚民呼ばわりしたところでなにも変わらない。そのひとつひとつを拾い上げていく覚悟と精緻な設計図を得てはじめて、日本型リベラルは、(ソーシャル)リベラルの名に値するものへとなることができる。その逆の方向に野党が揃いも揃って向かっているように思えてなりません。


























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