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森本あんり著『異端の時代』を読む3















原点回帰の幻想
 異端は、はじめそれ自身では善良でおとなしい構成要素であったものがいつの間にか肥大化し突出する、という共通の発生経路をもつが、もう一つの特徴は「原点回帰」である。原点へ回帰すれば、現時点までの発展過程にまとわりついている不純な夾雑物を一挙に清算することができる、と想定するからである。原初的な啓示と自己の現在とを無媒介に接続すると、ラディカルな理想主義と英雄的なリゴリズムが生まれる。だから異端は必然的に少数たらざるを得ない。これに対し、正統は「俗世の不完全さ」を前提して出発するので、「人間と社会の欠陥に寛容」である。
 この対比は、以下本章で読むことになる堀米庸三の分析を先取りして示したものだが、第四章で見た異端の高貴さと正統の凡俗さにも対応しており、トレルチ的な「キルヘ」(最大母集団)と「ゼクテ」(少数精鋭集団)という対比とも順当に合致する。
 キリスト教の場合、「原点」とは聖書時代の啓示ということになろう。しかし、多くの場合それは「全体的にではなく部分的に、つまり異端の主観的真実に合致するかぎりにおいて」理解された啓示である(堀米 一九六四年:三七頁)。マルキオンオリゲネスペラギウスといった人びとは、それぞれが真正と考える原点から純粋に引き描かれる線の上を歩むことを決意した、実に尊敬すべき人物であった。
 だが、そこで想定される原点は、先に検証したように、それほど単純でも純粋でもない。源流と思われるものは、すでにその時点で多元的ないし多極的な契機で構成されている。それらが地表水になるか地下水であり続けるかはともかく、原点へ還ればおのずと本質を定義することができる、という考えは、歴史学的には素朴すぎる。トレルチが看破した通り、原点回帰において本質と見定められたものは、実のところそれを見定めようとする観察者の形成的な思惑をなぞっているにすぎないからである。

異端の時代』p.138-139より




「原点回帰」というスローガンは

とても 魅力的なものです


多くの信仰復興運動、復帰運動も

同様の理念を 掲げていました


あるものは その目標設定の崇高さの故に

「少数精鋭」のグループとなりました


また あるものは その要点の明快さの故に

大衆化していきました




しかし

それらが キリスト教信仰の全体性を取り戻そうとしない内は

対抗運動の域を出ません


ただ 一方で

部分的な原点回帰を希求する集団は

ある種の説得力と突破力を持ちます


ですから

彼らの存在は

時に

主流派、多数派にとっても脅威となります


そして

このことは、周辺からの変革のきっかけに

なり得るでしょう




けれども

時間が経つにつれ

躍動感のあった運動も

沈静化し、固定化していきます


そして

飛び出してきた古巣を知る世代が

順番に 召されていくと

自分たちの何が特殊で

何故、その点を強調したのかが

忘れられていきます


結果的に

 自分たちの思想と実践が

 キリスト教の全てだ

という 勘違いが蔓延していきます...




そうなってしまった集団を

再活性することは

なかなか容易ではありません


初代教会はおろか

彼らの「原点」「出発点」に立ち返らせるだけでも

一苦労です


「自分たちは 直接キリストの弟子たちと結びついている」

と確信している人たちにとって

歴史を遡ることなど

時間の無駄でしかないからです




そんな「セクト」の中で

「セクト」本来のアイデンティティを取り戻そうとするなら...

「異端児」と 見なされる覚悟をしなくては いけないでしょうね



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