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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

W・H・ウィリモン著『洗礼』

ここまで、洗礼によって約束されていること、また洗礼とはプロセスであるということについてお話ししてきましたが、わたしは、神による新生のわざがわた
したちに対して行われるとき、わたしたちの方からもYESとこと答えることが求められている、ということを否定するつもりはありません。その点について、ビリー・グラハムはまったく正しいのです。わたしたちに行われる神のわざは、わたしたちの行為や信仰や決心などによって始められたり、制限されたりするものではありませんが、わたしたちがそのわざを受け入れたり、わたしたちがYESと答えることがなければ、ほとんど何の結果ももたらしません。キリストにおいてわたしたちに向かって雷のごとく鳴り響いている神のYESも、自分の人生において、わたしたちがYESと答えることがなければ、ほとんど現実的な意味をもちません。わたしは、アメリカの福音派は次の点で間違ってきたと思っています。それは、ひとつの決まったパターンの新生をすべてのひとに当てはめようとし、回心とは主観的で一回限りの出来事だとし、そして救いについても、あまりにも人間の感情、人間の信仰、人間の決心のみを強調し、わたしたちの救いにおける神のわざについて強調することがあまりにも少ないという点です。しかしそれでも、福音派がまったく正しいのは、神からの贈り物がわたしたちの応答を要求している、ということを強調している点です。差し出しても受け取ってもらえない贈り物であっても、それが贈り物であることには変わりがありませんーーけれども、贈り物が受け取られないのは、たいへん悲しいことです。

洗礼』pp.174-5より




こういう文章を読んで

反発も 違和感も覚えなくなりました


むしろ

深く 共感してしまう自分がいます




 「私」のための「福音」によって始められた 「私」を起点とした信仰生活

 「私とあなた」の関係に終始する神様との関係...


 そんな「私」を中心に

 自分と世界を見ていますので

 「私」の問題点に気づかず

 そこから脱却することが出来ません...


このことも

たいへん 悲しいことです




すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ローマ人への手紙11:36


私ではなく

神から


聖書がはっきりと語っている この大原則に則って

洗礼理解、信仰理解を築き

それを 同じ共同体のメンバーと

共有していきたい!


そう強く 願います




しかし

この思いは 果たして届くのか?


閉じこもり 耳を塞ぐ人たちに

どのようにアプローチすれば良いのか?


考えあぐねいています...





















【関連書籍】

W・H・ウィリモン, S・ハワーワス著『主の祈り


S・R・ペイス著『はじめてのニーバー兄弟

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