...歴史も時間もわたしたちのものではなく、神からの贈り物であり、そこには目的と方向があるということをわたしたちがよく知るようにと、バニエとハワーワスは招いています。神によって創造され、神によって正しい結末に導かれることが約束されているこの世界で生きる以外、わたしたちには選択肢はありません。そうでなければよいのにと願うことが、事あるごとにあるかもしれませんけれど!神の摂理から逃げ出し、自分だけの時間の内側で平穏に生きられたら、と願うこともあるでしょう。しかし、この世界の暴力が指し示すことは、そのような「自分だけの時間」の内側で生きたいという願いや欲求は、実体のないスペースをつくり出すことでしかない、ということです。そこは、変革への希望や可能性、そして、神による和解も存在しない世界であり、この世界の痛みと出会うだけの世界です。そのようなスペースに長く住んでいたいとは誰も思わないはずです。わたしたちは、神の時に生き、神の歴史の中を歩んでいます。この世界の救いは神がなさるわざであり、わたしたちのわざではありません。わたしたちのなすべきことは、どこにいようとも信仰をもって忠実に生きる民、平和の民でいることです。このような平和を形づくっていくことは、この世の暴力によっては決定されることはありません。むしろ次のことを認めることによってなされていきます。それは、柔和な方であるイエスがすでに時を贖い取ってくださったこと、そして、主が再び来られるときまで信頼し、忍耐し、柔和に生きることが信仰をもって忠実に生きる鍵となることです(ヤコブ五・七)。
ラルシュは思い起こさせてくれます。時間とは、無駄にしたり消費したり、貯めておいたり使ったりするただの日用品のようなものではなく、神の国の事柄を追い求めるために私たちに与えられている贈り物である、ということを。ラルシュに生きる人たちは、時間が贈り物であることがよくわかっています。時間による独裁支配から解き放たれるとき、わたしたちはそれまでとは違ったしかたでこの世界が見えるようになります。
『暴力の世界で柔和に生きる』p.137-138より
読み切りました
けれども
読めた気がしません
熟読、精読と言わないまでも
かなり丁寧に読み返しました
しかし
読み取れた自信が持てません
ハワーワスには
知的な面でついていけませんでした
なんとか大意はつかめているように思います
ただところどころ意図が汲み取れない部分がありました
バニエには
神学的な面でついていけませんでした
各論賛成総論反対と言ったら良いのでしょうか?
彼のスタンスを受容しても構わないのかと何度も戸惑いました
けれども
不思議なことですが
その「足踏み」を積極的に捉えられています
主体的であること
自覚的であること
「自由」を尊重すること
時間と能力を無駄遣いしないこと
若い頃から身につけようとしてきたこれらのことが
平和作りの妨げにもなりうると
彼らから教えられました
理にかなっていることを追い求めることは
「理」の支配を押し拡げるだけだからです
一方で
選択をすることが重んじられる彼らの国と
周囲に同調することが美徳とされる私たちの国では
同じ主張が 違って響くのではないか?
と 反発も感じています
そのわだかまりと
未消化な部分を
どう 解消していくのか については
手立てを見いだせていません
【関連書籍】
ジム・ウォリス著『よみがえれ、平和よ!』
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