困窮している人を顧みないという罪は、貧しい者の神を激怒させる。ラザロが死んだとき、神は彼をアブラハムのふところで慰めた。だが金持ちが死んだときは、責め苦が彼を待っていたのだ。ラザロという名前には「神が助けた者」という意味があるが、それがこの話の要点を強調している。すなわち、神は貧者を助け、富者を空しくする、ということである。
クラーク・ピノックは「金持ちとラザロのような話は、外に立ちつくす第三世界の人びとを尻目に、豪華な食卓に着いてこれを読む私たちには衝撃的だ」といっているが、まったくそのとおりである。貧者を援助しない富者を滅ぼす、という恐るべき宣告は、律法や預言者だけが告げているものではなく、主ご自身の宣言でもあるのだ。
ソドムの滅亡について聖書が語っていることは、この恐るべき真理の現われのひとつだ。ソドムがなぜ滅亡したかと問われれば、文字どおりすべてのクリスチャンは、性的な乱れを原因にあげる。しかし、それは聖書の教えの一面でしかない。エゼキエルは、神がソドムを滅ぼしたひとつの重大な理由は、この町が貧しい人びとと分かち合うことをかたくなに拒んだことにあったことを示している。
ロナルド・J・サイダー著『飢えの時代と富むキリスト者』pp.68-9より
KGKの主事として奉仕していた時に
「社会問題を考える暇があるなら 伝道しろ!」という批判を
間接的に 受けたことがあります
また
そこまで 露骨に否定的ではなくても
「うちは そういうんじゃない」
と 思っている教会は 案外多いのではないでしょうか?
その気持ちはわかります
私の教会でも「社会的責任」のことが話題に上がることはほとんどありませんし
個人としても 何かの活動が出来ているわけではありません
特に 飢餓や貧困は
非常に 難しい課題ですから
無理もありません
しかし
この事柄から目を背けることは
「伝道」にとってもマイナスなのではないか?
と 個人的には 感じています
世界的な食糧危機が
どのような経緯で起こっているのかを学ぶ時に
すぐに気づかされるのは
他でもない 自分自身が
当事者、加害者であるということです
しかし
同時に
その事実を突きつけられても
見て見ぬ振りを決め込もうとする自らの冷たさを
痛いほど 知らされます
私たちは
自分の日常を守るためには
平気で他者を見殺しにする者なのです
私たちのうちに潜む この無関心という狂気を
直視することは
私たちの罪理解を深め
私たちの態度を変えます
しかし
このことを スルーしてしまうと
私たちは
善良な市民であるふりをするようになります
神様に対しては 罪を犯している
心では 淫らな思いも 抱えている
時には 周囲の人々と仲違いをすることもある
しかし
実際に
誰かを虐げるようなことはしたことはない
と 考えてしまうのです
すると
無意識のうちに
自分自身と 「まだ悔い改めていない罪人」との間に
ある種の境界線が 引かれるようになります
そんな調子で
求道者に対して 罪を語りますと
当然 その言葉は 上滑りします
赦された罪人 悔い改め続けるべき愚か者である
という自覚が乏しいので
罪の指摘が
非難めいたもの、説教じみたものになるからです
それでは
未信者の心を閉ざしてしまいます
聖書は
私たちの罪を
単なる心の問題とは捉えていません
社会的な責任も含めて
多角的な視点から
私たちの罪深さを 糾弾しています
その御言葉を
そのまま受け止め
そのまま分かち合うならば
そこに神様が働いてくださるのではないでしょうか?
それは 決して遠回りではありません
聞け。ソドムの首領たちよ、主のことばを。 耳を傾けよ。ゴモラの民よ、私たちの神のみおしえに。
「あなたがたの多くのいけにえは、 わたしにとって何になろう。
──主は言われる──
わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、 肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよと あなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──
わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。 それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。 悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。」
イザヤ書1:10-17
だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌み嫌うべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼女たちを取り除いた。
エゼキエル書16:49-50
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