先日
あるホーリネス系の教会の牧師から
「スペインかぜの時期と大正期ホーリネス・リバイバルの時期は重なっている」
というお話をうかがいました
たしかに
インフルエンザのパンデミックは1918年から1920年にかけてに起こりました
そして
少し遅れて1919年から1920年に 火がついたのが このリバイバルでした
また
『日本キリスト教宣教史』を見ますと
この運動が 「再臨運動」の流れに位置付けられることがわかります
大正期のキリスト教界における注目すべき動きとして、教派を超えた再臨運動がある。具体的にこの運動を担ったのは、無教会の内村鑑三、ホーリネス教会の中田重治、組合教会の木村清松等である。
この時期に再臨信仰が強調された背景として、第一次世界大戦(1914〜1918年)の勃発とその破壊的な結果を通して、西洋のキリスト教的近代文明の破綻が明らかになったことがある。科学の進歩や合理主義に対する深刻な反省が生まれてきた。...
...日本ホーリネス教会は、創立当初から「新生、聖化、再臨、神癒」の四重の福音を掲げ、その柱の一つとして再臨を強調していた。1917年に、中田重治はブラックストンの『耶蘇は来る』を翻訳出版する。これは、キリストの再臨が千年王国の前に実現する、という立場から書かれたものである。中田は翌年の新年聖会においても再臨問題についての連続講演し、その重要性を強調した。...
中村敏著『日本キリスト教宣教史』pp.221-222より
世界大戦によってもたらされた絶望感
再臨運動によって高められていた伝道の気運
パンデミックによって蔓延した危機意識
人々からの関心を集めたセンセーショナルなメッセージ
これらが 合間って
爆発的な 教勢の拡大が 実現したのでしょう
もちろん
これらは
たゆまぬ祈りを背景したもので
その後のキリスト教界の形を 作り上げていった非常に意義深い出来事です
しかし...
先の牧師によると
この一連のうねりには
影の部分もあったようです
というのも
後のホーリネス教会の分裂に至る問題の種が
この時すでに芽生えていたからです
例えば
中田師が訳した『耶蘇は来る』
これは ホーリネス教会の「教科書」と見なされていたものだそうですが
シオニズムの傾向を帯びた書物だったようです
シオニズム自体をどう評価するかは
難しい課題ですが
このユダヤ民族に対する異常な関心が
後に 中田師を「日ユ同祖論」に向かわせた誘因であったと
考えることが出来ると思います
先の『日本キリスト教宣教史』には次のようにあります
この小谷部等の日ユ同祖論に触発され、さらに独自の聖書解釈を加え、再臨についての自説を主張したのが、ホーリネス教会の中田重治監督である。彼はホーリネス教会を中心とするリバイバルの高揚の中で、1933(昭和8)年初頭『聖書より見たる日本』という講演集を出版した。彼はこの書で、「わが民族の中にはイスラエル人の血が入っている」と主張するが、その論拠はきわめて強引なものであった。たとえば、日本の神社の構造がユダヤの神殿のそれとよく似ているとか、節句の祭りの時によもぎやしょうぶを家の門口に垂らすのが、ユダヤの仮庵の祭りと酷似しているとか、よもぎ餅は苦菜を入れたパンを表すという論法である。日本で用いられているさまざまな言葉や地名と、ユダヤのそれとの類似を論じるくだりは、語呂合わせという感が強い。そして彼は独特の聖書解釈を展開し、「わが日本民族は主イエスの再臨と、それに関連するイスラエルの回復について使命がある」ことを強調した。日韓併合、満州支配等の一連の日本の大陸侵略を肯定し、日本が強大になることにより、選民イスラエルを救うために用いられるようになる、と主張した。
1933年において、中田は一層再臨の切迫性を声高に主張し、もはや従来のような個人伝道や教会形成をしている時ではなく、ひたすらキリストの再臨とユダヤ民族の回復のための祈りに専念すべきだ、と説いた。従来のホーリネス教会の伝道主義を否定する、こうした彼の言動の結果、ホーリネス教会は分裂の悲劇を通らされるのである。これらの経緯については、拙著『日本における福音派の歴史』を参照していただきたい。この例は、日ユ同祖論を強調しすぎると、正統信仰から脱線する危険があるという歴史の教訓である。
『日本キリスト教宣教史』p.28-29より
このような歴史的評価に触れますと
中田師の主張は あまりにも突飛なものに
感じてしまいます
そして
「どうして 「分裂」に至ったのか?」
「なぜ 中田師は 孤立化しなかったのか?」
と 不思議に思います
しかし
イザヤ書41:2, 49:11-12などの御言葉が引かれ
「東」=「日本」
「大路」=「鉄道」
「シニム」=「China 中国」など
具体的に「根拠」が示されて
この議論が展開されていったことを知るなら
鵜呑みにしてしまった人たちがいたことも
納得できます
ところで
このような「再臨運動」と「独特の聖書解釈」と「先鋭化→分裂」のトライアングルは
大正期に 初めて見られたものではありません
キリスト教の歴史において
特に危機の時代に
繰り返されてきたことでした
『キリスト教2000年史』には
次のようにあります
当局者のアナバプテスト迫害を正当化するかのような出来事が、1530年代半ばミュンスターにおいて起こった。1534年、千年王国を待望するアナバプテストの集団がウェストファリアにあるカトリック要都ミュンスターの支配権を握った。司教が軍隊を結集して市を包囲した時、アナバプテストは武力をもって防戦した。包囲攻撃が進む中、さらに極端な指導者たちが支配権を得た。ミュンスターの指導者のうちにある者たちは、自らに新しい啓示を受ける預言者的権威があると主張した。
井上政己監訳『キリスト教2000年史』p.404より
同じ出来事のことが
『これだけは知っておきたいキリスト教史』には こう記されています
さらに、アナバプテストの中には、世の終わりが近いと結論づける者たちも出現。それがなおいっそう、その急進的立場に拍車をかけるものになりました。ついには、当初の平和主義を放棄し、軍隊を使って神の国建設に乗り出す一群も現われました。その最も有名なのは、ミュンスターの町での出来事と言えます。すなわち、ミュンスターでアナバプテストの急進派が権力を握り、司教を追放。神政政治の国の建設を行います。そのとき、その国を称して彼らが宣言した名は、「新しきエルサレム」でした。しかしながら、運動はいよいよ過激さを増幅。そのようにして、最後はついに司教支持派の軍隊に町を奪い返され、「新しきエルサレムの国王」は捕らえられるところとなったのでした。
J・ゴンサレス著『これだけは知っておきたいキリスト教史』p.134より
この経緯を見て
とても残念だと思うのが
一部の急進派、過激派の運動が
迫害の口実にされてしまったことです
しかし
それ以上に悲しいのは
このことによって
再臨信仰自体が
軽視されかねないことです
再臨信仰は
「使徒信条」にも明記されているように
キリスト教信仰にとって本質的な要素です
けれども
再臨を強調する人物が
時代の特定の出来事や事項と
聖書を無理に結びつけてしまうと
その主張の問題が明らかになった時に
再臨そのものが 疑われるようになってしまいます
結果的に
「彼の来臨の約束はどこにあるのか
父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」
とうそぶく人たちの声を
強めてしまいます
しかし
ペテロは2000年近く前から
このように述べていました
愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。
ペテロの手紙第二3:8-10a
主は約束したことを遅らせているのではない
けれども
主の日は盗人のようにやって来るのであって
いつであるかは はっきりとはわからない
この健全なバランスを
パンデミックに怯えるこの時期にも
保ち続けたいものです
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