イザヤ、あるいは、あるいは待降節の讃美歌のように、詩的で、黙示的で、預言者的なスピーチは、ただ世界を描き出すだけでなく、一つの世界を再創造し、造り出します。それは開かれた世界であり、古く、居心地のよい確かさは、すべてを新しくなさる神の到来によって打ち破られてしまいます。神が来られる世界においては、わたしたちは解放されて歩きまわります。そこでは、詩的な想像力がイデオロギーに襲撃をかけます。まだ形づくられてはおらず、思い浮かべることもなく、夢見ることもなかった新しい輪郭が、人生に今与えられたのです。
「主なる神の霊がわたしをとらえた。...貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。......つながれている人には開放を告知させるために。......灰に代えて冠をかぶらせ......るために」
これは、イザヤの抗議、詩による抗議です。スローガン、道徳、五つの原理、バンパーに貼られるしゃれた言葉、一日一言、習慣に成り下がった信仰、分かりきっていることやとっくに知っていることの退屈な焼き直しでしかない信仰に対する抗議です。これは、さらにもっと大いなるものを探るよりも、目に見えるものに順応しようとする日曜日に対する抗議です。わたしたちは、確実だと思われるものをたしかめ、すでに知っていることと触れ合おうとして教会にやってきました。しかし、黙示的スピーチは、確実だと思われたものを越えて。詩的で、黙示的で、霊が注がれた空間においては、可能性が必要性をひっくり返し、わたしたちが息をできるようにしてくれるのです。
そうして、わたしたちは教会を後にして前へ進むのです。家へと向かう車の中で、いつもと同じ口論が起こります。夕べの食卓の間中同じ緊張があります。憂鬱な月曜日も同じままです。しかし、今、わたしたちは、新しい世界、新しい希望、新しい可能性、新しい夢、何か他のものを求める新しい飢え渇きに気づいていますーつまり、わたしたちは、もっと大いなるものに気づいているのです。自分たちが真理をどれほど縮小してしまっていたか、どれほど飼いならしてしまっていたかを見るのです。わたしたち、新しいぶどう酒を味わった者たちは、今やさらにもっと渇望するのです。
『教会を通り過ぎていく人への福音』p.189-190より
「一ヶ月の自粛期間中に
伝道について再考しておこう」
そんな軽い気持ちで読み始めました
アイデアとヒントだけ得て
自分のスタイルを磨いて行きたい
と 思っていたのですが...
その魂胆を見透かされ
「出直してくるように」と
お叱りを受けました
行儀よく座っている 固定された会衆に対して語られる ちょっぴりだけ批判的なメッセージ
大衆受けする陳腐な言葉で飾られた 精神的な欠乏を補う「福音」
そんな宣教に
随分毒されてきたんだと
自覚させられました
伝道とは 冒険への招きであり
信仰者にとっても
迎合と乖離の間を漂う危険な営みです
決死の覚悟が求めらるということを
忘れていましたね
微修正を加えていくことに満足するのではなく
聖書に 神の計画に 全人的に捕らえられることから
そこに 身を投じることから 始めたい
その中で 語るべき言葉を
得て行きたいと思わされています
(↑ 読む前の心境のイメージ図)
【関連書籍】
W・H・ウィリモン, S・ハワーワス著『主の祈り』
W・H・ウィリモン著『洗礼』
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