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スコット・マクナイト著『福音の再発見』を読む3
























イエスの物語は御国(王国)のヴィジョンに関するものであり、この御国のヴィジョンは、創造の物語、神のご計画どおりに生きようとするイスラエルの物語、そして黙示録に記されている聖なる都のヴィジョンから浮かび上がる。これらの用語の一つひとつに1章ずつ割いて、ここで私が言っていることを詳しく説明することもできるが、今は全体像をざっと捉えようとしてうるので、この時点では詳述しない。イエスの物語の中心にあるのは、イエスの誕生、人生、教え、奇跡と行動、死、埋葬、復活、そして昇天と着座と言う物語である。その物語には、イエスを定義し、イスラエルの物語を完成するにあたってのイエスの存在と役割を識別するための呼称が備わっている。メシア、主、神の御子、救い主、人の子といった呼称だ。メシアであり主であるイエスの物語は、イスラエルの物語の中で切望されていた完成を現実のものとする。このイエスこそ、イスラエルをその罪から救い出すお方であり、人間を罪の束縛から解放するお方である。

福音の再発見』p.46-47より




「イエスの誕生、人生、教え、奇跡と行動、死、埋葬、復活」を

イエス様の物語の中心と捉えることは

誰もが 同意することでしょう




けれども

そこに

「昇天と着座」を「加える」ことは

福音派の教会では

あまりポピュラーではないように思います


伝道集会などで

イエス様の紹介がなされる時に

それらのことに触れられるのを

ほとんど聞いたことがありません




しかし

新約聖書は

キリストが神のの座に着かれたことを

繰り返し語っています


また パウロは

復活と着座を しばしば 結びつけています


だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

ローマ人への手紙8:34


この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

エペソ人への手紙1:20


復活と昇天と着座は

一続きの出来事なのです




また

マックナイトは

パウロの福音には

イエス様の昇天が含まれると述べています


...さらに、イエスの物語はイエスが復活後に現れたところで終わっていない。多くの人たち(私もその一人だが)は、パウロが受け、宣べ伝え、コリント人が受け取った「福音」は、段落B(15章5節)で終わるのではなく、段落C(20-28節)の終わりまで続くのだろうと判断している。言い換えると、パウロの福音はイエスの昇天とキリストの再臨、さらには神がすべてのすべてになるときに神の国が究極的に完成されるところまでを含んでいる、と考える理由があるのだ。

『福音の再発見』p.71より


しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

コリント人への手紙第一15:20-28




昇天、着座が

キリストの王権と

結びつくものであることを 考慮するなら(使2:30-34, ヘブ1:3-8参照)

福音のうちに それらのものを含めることは

妥当なことでしょう




というのも

福音は「王の福音」だからです


この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

ローマ人への手紙1:2-3


イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

テモテへの手紙第二2:8


この二箇所では

福音は

ダビデの子孫として生まれた 御子キリストに関するものである

と 述べられていますが

ここで ダビデが引き合いに出されているのは

イエス様が 王であることを示すためなのは

明らかです




また

ダビデの賛歌である詩篇110篇が

イエス様の「着座」の預言として

繰り返し引用されていることも(マタ22:44, マコ12:36, ルカ20:42, 使2:34, ヘブ1:13参照)

「ダビデ」と「王権」

そして「着座」の密接な関係を

指し示していると言えるでしょう







このように考えていくと...

昇天と着座は

イエス様の物語の中心

そして福音の

欠かせない要素だと わかります


逆に言えば...

そこまで 全く 触れられていないなら

「福音集会」が「福音集会」として

機能していないことになります


これは とても残念なことです...










ところで

マックナイトは

5章「救いは福音をいかにして飲み込んでしまったのか」で

カルヴァン派、改革派のことを

随分、ネガティブに評価しています


ルター以上にカルヴァン(とギョーレム・ファレル)は、福音の物語を新しい枠組みとなる物語、すなわち救いの物語の中に据えた。そして現代の福音派は、特に英国と米国においては、この宗教改革(救い)の物語にすっかり同化してしまったのだ。控えめに言っても、救いの物語に同化しただけでなく、福音の物語から削られたり新たに再構成されたりした部分も多くあった。宗教改革によるこの大々的な枠組みの組み替えにより、単純な(そして薄っぺらい)四つのポイントに福音が縮小されてしまったグループが、福音派内には多数存在するのである。その四つとは、神はあなたを愛している、あなたは罪を犯した、イエスはあなたのために死なれた、イエスを受け入れるなら(あなたが何をするとしても)天国に行ける、というものだ。私が主張しているのは、宗教改革がこのような福音を生み出したというのではなく、宗教改革による福音の物語の再形成が、本来の福音の姿をすっかり影の薄いものにしてしまった、と言うことだ。

『福音の再発見』p.100より


カルヴァンとその後継者たちが

福音の物語を救いの物語としてしまったという 捉え方が

適切であるかどうかは

「専門家」に任せたいと思いますが

少なくとも 改革派の「ウェストミンスター大教理問答」では

キリストの昇天、着座、再臨については

きっちりと 論じられているということは

指摘しておきたいと思います




問42 わたしたちの仲保者は、なぜキリストと名づけられたのか。 答 わたしたちの仲保者がキリストと名づけられたのは、聖霊を限りなく注がれて(1)、低い状態においても高い状態においても、その教会の預言者(2)・祭司(3)・王(4)の職務を果たすために聖別され、すべての権威と力を完全に与えられたからである(5)。     1 ヨハネ3:34, 詩45:7     2 行伝3:21-22, ルカ4:18, 4:21     3 ヘブル5:5-7, 4:14-15     4 詩2:6, マタイ21:5, イザヤ9:6-7, ピリピ2:8-11     5 ヨハネ6:27, マタイ28:18-20

問45 キリストは、どのようにして王の職務を果たされるか。 答 キリストは、世から一つの民をご自身のもとに召し出すこと(1)、彼が彼らを可見的に支配する(2)手段である役員(3)と律法(4)と戒規とを彼らに与えることにより、その選民に救いの恵みを授けること(5)・彼らの服従に報いること(6)・彼らを罪のために正すこと(7)・彼らのすべての誘惑と苦難の下で彼らを守り支えること(8)・彼らのすべての敵を抑制し征服すること(9)・ご自身の栄光(10)と彼らの益(11)のためにすべての事柄を力強く統御することにより、また神を認めず福音に従わないその他の人々に報復する(12)ことによって、王の職務を果たされる。     1 行伝15:14-16, イザヤ55:4-5, 創49:10, 詩110:3     2 マタイ18:17-18, Ⅰコリント5:4-5     3 エペソ4:11-12, Ⅰコリント12:28     4 イザヤ32:22     5 行伝5:31     6 黙示22:12, 2:10     7 黙示3:19     8 イザヤ63:9     9 Ⅰコリント15:25, 詩110篇     10 ロマ14:10-11     11 ロマ8:28     12 Ⅱテサロニケ1:8-9, 詩2:8-9

問53 キリストは、その昇天において、どのように高くされたか。 答 キリストは、その昇天において、次のように高くされた。すなわち、復活の後、たびたび使徒たちに現われて交わり、彼らに神の国にかかわることを語り(1)、万国民に福音を宣べ伝えるべき命令を与え(2)、復活後四十日たって、人間性において、わたしたちの首(かしら)として(3)、敵に打ち勝って(4)可見的に最高の天にのぼられた。そこで人々のために賜物を受け(5)、そこへわたしたちの心をひき上げ(6)、わたしたちのために場所を用意する(7)ためである。彼ご自身、今そこにおられ、世の終りの再臨までい続けられる(8)。     1 行伝1:2-3     2 マタイ28:19-20     3 ヘブル6:20     4 エペソ4:8     5 行伝1:9-11, エペソ4:10, 詩68:18(19)     6 コロサイ3:1-2     7 ヨハネ14:3     8 行伝3:21

問54 キリストは、神の右に座していることにおいて、どのようにして高くされているか。 答 キリストは、神の右に座していることにおいて、次のように高くされている。すなわち、彼は神・人として、満ちあふれる喜び(1)、栄光(2)、また天地のすべてのものを治める権威(3)をもって、父なる神の最高の愛顧に入れられ(4)、彼の教会を集め、守り、彼らの敵を征服し、その役員と民に賜物と恵みを与え(5)、また彼らのために執り成される(6)。     1 行伝2:28(詩16:11と比較)(*)       * 行伝2:28と詩16:11を比較     2 ヨハネ17:5     3 エペソ1:22、Ⅰペテロ3:22     4 ピリピ2:9     5 エペソ4:10-12、詩110篇     6 ロマ8:34




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