同じイメージが
頭にへばりついて
振り払えない時があります
今は このシーンと言葉が
ずっと 頭の中を回っています
一つは
旧態依然 現状維持に腐心する鯱に対する黄泉の言葉
もう一つは
生き死にかかった場面で ウェルウィンがひねり出した言葉
どちらも 厳しい主人を前にして
語られたものですが
同時に 思い出されるのが 以下の箇所
「しかし、主人は彼に答えた。
『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』...」
マタイの福音書25:26-30
神様は決して 取り立て屋のような方ではありません
むしろ
能力に応じて 渡してくださる方であり
手にしたものを 気前よく与えてくださる方です
でも
だからこそ
今 委ねられている立場 関係 能力 などを
存分に 使っていただきたいですね...
できれば ウェルフインのようにフル回転させて
しかし
同時に 聖なる躍動感 高揚感を持ちつつ...
この物語の始まりでは、この主人が無慈悲だと、あなたは決して思わなかったはずです。むしろ慈悲深い人のように思えます。三人の僕に一〇〇〇ポンドの純銀を惜しまず分け与え、それで何をするかについても何の制限も設けずに町を離れたのですから。
そして彼が清算と評価のために戻るときこそ、裁判官の小槌が振り下ろされると予想するまさにそのとき、無慈悲な男と呼ばれているこの人はそのお金を僕たちに与えようとするのです。この主人は最初の僕と二番目の僕に、まさにそのようにします。二人にお金を渡すのです。全額を。主人は僕たちにそのお金で何をしたかを正しく報告するように求め、彼らがそのお金で多くのことをしたことを知って、主人が帰ってきて、清算を始め、評価を下し始めたとき、あらためてお金を全部彼らに与えます。「主人と一緒に喜んでくれ」
これが無慈悲なことのように聞こえるでしょうか?
『教会を通り過ぎていく人への福音』p.138より
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