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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

私を構成するもの4




これは…恐ろしい記事です…


「ジャーナリズム」の現実を知るという意味でも

格好の「事例」ですが

それ以上に 人間の心理について

痛々しいほどに教えてくれています



私は、この記事を書いた藤原氏も

論じられている後藤氏のことも

全く知りません


今回 初めて その存在を知りました

(そして 忘れていくことでしょう笑)


しかし

全部読み通して 感じたのは

「2人は似ている」

ということです


両者とも 立場は違えど

「この人さえ 舞台から去れば いくらか正常化する」

という確信に絡め取られているように思えます

(「と言われても仕方がない」と表現した方が良いでしょうか?)



何よりも印象的だったのは

藤原氏の後藤氏への「愛」です


実際に番組を見ながら メモしたわけでなかったかもしれませんが

これほど多くのコメントを正確に引用することは

容易なことではありません


藤原氏に言わせれば

後藤氏は

安倍総理に難癖をつけたいだけの困ったコメンテイターなのでしょうが

その藤原氏の後藤氏に対する執着も

相当なものです


特に 藤原氏のように

ネット空間の仕事にありついている人が

(少なくともアゴラに記事が掲載され続けています)

民放の報道番組をチェックし続けることは

それなりの思い入れが 無ければ 出来ません


というのは

書く側の人間にとって

必要なのは あくまで「ファクト」ですから

「信用できない番組」(とは一度も言ってませんが…)の「御用コメンテーター」の意見など

「取材」の対象外のはずだからです


今では ネットで

かなりの情報を集めることが出来ますので

社会監視という目的を除けば

報道番組を見なければいけない必然性も ありません


それでもなお

藤原氏は

後藤氏の発言を追い続けました


テレビの枠にとらわれず

直接 インターネットで情報を発信する立場を得ながらも

後藤氏や報道ステーション、ひいてはテレビ報道と対峙するということを

選び取っているのです



このことは

藤原氏が

民間放送の発信力に対して

よほどの信頼を置いていることの証ではないでしょうか?


藤原氏にとって

放映権という特権にあずかっているテレビ朝日と

朝日の有名な番組で コメンテーターの座につく後藤氏は

批判されてしかるべき「権力者」に見えているのでしょう

(それは全くの「虚像」だとは言えませんが…)




その「権力者」に対して

必死で立ち向かおうとする藤原氏の姿は

何処か 安倍総理を執拗に口撃する後藤氏と重なります



そして

悲しいかな…

私自身の姿 とも…です






「根本的な問題」を設定して

それに基づいて情報を収集整理し

発言していくことは

ある意味で気持ち良いものです


しかし

そうやって練り上げた言葉が

あまりにも相手に響かないと

人は疲れ始めます


それでも

諦めることが出来ないと

今度は

自分自身の声をかき消す防音装置を取り除くのに

躍起になってしまうのです


すると

次第に 対決そのものが目的化していきます...



一つのことに固執する側と同様に

硬化させる側にも

やはり問題はあるのですが

何にしても

残念なことであるのは間違いありません



はぁ...


しかし

どうすれば

そのジレンマから

脱却出来るのでしょうか…?




わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

マタイの福音書5:17-19


さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

マタイの福音書7:1-5













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