さらに、もう一つ問題がある。パイパーは、信仰義認こそ福音である、という前提の上に立っている点だ。米国のカルヴァン派たち(福音派の間におけるカルヴァン主義の再台頭の背景には、パイパーの強い影響がある)は、福音を「信仰による義認」という短い公式で定義してきた。しかし、使徒たちは福音をそのように定義していたのだろうか? 使徒たちが福音を宣べ伝えたとき、彼らは何と言っていただろうか? 本書ではこれから、これらの問いに答えていきたいと思う。
スコット・マクナイト著『福音の再発見』p.28
一体 何の恨みがあるのだろうか?
と思ってしまうほどに
マクナイトは
カルヴァン主義、改革派に否定的です
彼の心情もわからなくもありませんが
残念ながら 彼の評価は 一面的なものです
というのも
パイパーの福音理解は
「信仰による義認」だけで
説明できるものではないからです
ここで、「良い知らせ」の何が究極的に「良い」のでしょうか。良い知らせは最終的に一つのこと、すなわち神ご自身に集約されます。福音の言葉すべてが神に至ります。そうでなければ、その言葉は福音ではありません。例えば、救いが地獄からの救いであっても、神に向かっての救いでないのなら、福音ではありません。赦しが罪責からの解放であっても、神へと道がつながらないのなら、福音ではありません。義認が法的に神に受け入れられることであっても、神との交わりをもたらさないのなら、福音ではありません。贖いが奴隷状態から自由にされることであっても、私たちを神のみもとに導かないのなら、福音ではありません。子とされることが、父の家族に入れられることであっても、父のふところに抱かれないのなら、福音ではありません。
これは決定的に重要なことです。多くの人は福音を捕らえても、神を捕らえてはいないようです。地獄から救出されたいという願いだけで、新しい心を持つ身になったということにはなりません。前者は自然の願いであり、後者は超自然的な願いだからです。新しい心がなくても、罪を赦されたという心理学的な解法を味わいたいとか、神の怒りを取りのけてほしいとか、神の国を相続したいと願うでしょう。これらの願いは、霊的な生まれ変わりがなくても理解できます。悪魔も同じように願うことでしょう。
もちろんこうした願いは悪ではありません。むしろそれを願わないことは、愚かです。しかしなぜそれを願うのかと問われたとき、それによって神を喜び楽しみたいという究極の願いがなければ、その人が恵みによって変えられているという保証にはならないのです。キリストは何のために死なれたのかと考えるとき、Ⅰペテロ3・18のみことばは最も包括的な答えを提示しています。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは......私たちを神のみもとに導くためでした」。
なぜこれが福音の本質なのでしょうか。私たちは神の栄光を見、それを味わうことによって、完全で永続的な幸せを体験するように創られているからです。...
ジョン・パイパー著『イエス・キリストの受難』p.94-96
パイパーは 個人主義的に受け取られかねない表現を用いています
また 彼の語り方は、教理学的で
釈義的なアプローチを重んじるマクナイトとは
違っています
しかし
単純化された自己中心的な「福音理解」を乗り越えようとしているのは
どちらも 同じですし
そして その部分こそ 肝心要なポイントではないでしょうか?
私の必要、私の気持ちに始まり
私の行く先に終始する「福音宣教」は
福音の最も味わい深い部分を覆い隠してしまうものです
良き知らせの 本当に良い部分を
薄めることなく 分かち合いたいものです
【関連記事】
Comments