クリスチャンであっても
ノンクリスチャンであっても
ほとんどの日本人にとって
初めて読む「聖書」は
「新約聖書」でしょう
イエス様の物語と
使徒たちの教えに ある程度触れてから
旧約聖書に目を向けるようになる
というのが よくあるパターンです
しかし
新約聖書の記者と 初めの読者にとって
その順序は逆でした
当時の教会において
「聖書」と言えば
私たちにとっての「旧約聖書」でした
弟子たちは
旧約聖書に親しみ
旧約聖書で語られたことを土台にして
福音書や手紙を 記していきました
旧約の教え、歴史、約束だけでなく
言葉や表現のレベルまで
彼らは 旧約の影響を受けていたのです
このことをしっかりと心に留めていないと
私たちは 誤解、思い違いをしてしまいます
たとえば...
テサロニケ人への手紙第一4:16-17
この箇所には
天、雲、空中
という言葉が用いられていますが
ここを見てどんな光景を思い浮かべるでしょうか?
敢えて
大げさに表現すると
こういうイメージを抱いている方は
意外と多いのではないでしょうか?↓
いや
それとも
こちらの方が↓イメージに近いでしょうか?
なるほど
雄大で 荘厳で
神秘的な情景です
それでは
著者のパウロは
どんな天、雲、空中のことを考えていたのでしょうか?
様々な想像が膨らみますが
彼の言葉の背景には 以下のような箇所が
あったと思います
主は、天を押し曲げて降りて来られた。 黒雲をその足の下にして。主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。主は、闇をご自分の周りで仮庵とされた。水の集まり、濃い雲を。
サムエル記第二22:10-12
天から下って来られる主
その足の下には黒雲があり
水の集まり、濃い雲を 周りにまとい
仮庵としておられる
このような描写が
テサロニケ人への手紙の下敷きになっている
と 考えられます
というのも
ギリシヤ語に訳された この箇所は
「天」「雲」「空中(空気)」という言葉が
共に用いられている唯一の箇所だからです
参考までに
ギリシヤ語訳を英訳したものを
二種類 載せておきます
And he bowed the heavens(G3772), and came down(G2597), and there was darkness under his feet. And he rode upon the cherubs and did fly, and was seen upon the wings of the wind. And he made darkness his hiding-place; his tabernacle round about him was the darkness of waters, he condensed it with the clouds of the air(G3507, G0109).
And he bent the heavens and came down, and thick darkness was under his feet. And he sat on cheroubin and flew, and he was seen upon wings of wind. And he made darkness his hideaway around him; his tent was a darkness of waters; it sickened with clouds of air.
そして
以前にも このブログで触れたように
このサムエル記の記述は
シナイでの出来事から
モチーフを借りてきていると思われます
モーセは行って、民の長老たちを呼び集め、神が彼に命じたこれらの言葉すべてを彼らに示した。民はみな一斉に答えて、「われわれは神が言われたことをすべて実行し、そして聞きしたがいます」と言った。モーセは民の言葉を、神に取り次いだ。
主はモーセに向かって言った。
「見よ、わたしは雲の(G3507)柱の中でおまえに臨もうとしている。それは、わたしがおまえに語りかけるわたしの言葉を民が聞き、そして彼らが以降、おまえを信じるためである。」
モーセは民の言葉を主に告げた。
主はモーセに向かって言った。
「(山を)降りて行って民に厳命するがよい。おまえは今日と明日、彼らを洗い清めてやるのだ。彼らには衣服を洗わせよ。彼らに、三日目のための準備をさせるのだ。主は三日目に、すべての民の前でシナイ山に降臨される(G2597)からである。おまえは次のように言って、民を円でもって(他と)分かつがよい。『おまえたちは山の中に登って行かぬよう、またその一部にでも触れぬよう、注意するのだ。山に触れる者はみな必ず死ぬ。その者に手を触れてはならない。なぜなら、(その者に触れる者は)必ず石で撃ち殺されるか、矢で射られて殺されるからである。家畜であれ、人間であれ、生かしてはおかれない。雷鳴(G5456)と喇叭(G4536)(の音)と雲(G3506)が山から去るとき、それらのものは山に登ってもかまわない。』」
モーセは山から民のもとへ降りてきて、彼らを聖別した。そして、彼らは衣服を洗った。
彼は民に言った。
「(さあ、)準備するのだ。三日の間、おまえたちは女に近づいてはならない。」
三日目の朝が近づくと、雷鳴(G5456)と稲妻と暗 雲(G3507)がシナイ山の上に生じ、喇叭(G4536)の音(G5456)が大きく響きわたった。宿営の中にいた民はみな恐怖にかられた。モーセは神に会わせるために民を宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。
出エジプト記19:7-17
このように 新約から旧約へと 遡っていくと
パウロの思い描いていた雲は
以下のようなものだったと
思われます
つまり
天高く 上空に留まっているのではなく
天から 降りてくる 雲 です
そして
そのような雲に包まれて
その真っ只中の「空中(in the air)」で
主をお迎えする
と パウロは述べているのです
ここで 特に 覚えておかなければいけないのは
焦点は
天上に登っていくこと
地上から脱却すること ではなく
神の臨在の中に入れられることだということです
なぜなら
雲やラッパは
旧約において
神様が 地上に介入してくださるシンボルとして
用いられてきたものだったからです
事実
4:17には
「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」
とあります
ですから
この「主とともにいる」という約束から
目を反らす読み方は控える必要があるでしょう
主とともにいることこそ
患難の絶えないクリスチャンの歩みにとって(Ⅰテサ2:14, 3:3, 3:4, 3:7参照)
真実の希望であるならば
私たちの日常生活の捉え方も
変わってくるのではないでしょうか?
臨在は
私たちにも確約されていることだからです
そのことを
「天」「雲」「空中」という言葉から
思い出すもので ありたいものです
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