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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

過越の祭り と パン裂き と 朗読

宗教改革者たちは

御言葉の朗読(説教)と礼典(パン裂きとバプテスマ)の正しい執行が

本物の教会の目印だと主張しました


これらが相応しく行われることこそ

教会の生命線だと考えたのです




それでは

初代の教会において

御言葉の朗読と礼典、特にパン裂きは

どのように結びついていたのでしょうか?




このことを考える上で

まず目を留めなければいけないのは

ユダヤ人たちが

どのように過越の祭を守っていたか

ということです


それぞれ次のように記されています


過越の祭は、かなりしきたりにのっとったやり方で行われていた。まず、開会の祈りと杯への祝福の祈りが捧げられた。続いて、全員が苦菜を塩味のついた水につける。家長はパン種を入れずに作った3つのパンのうちの1つを取って裂き、残りはそこに置いておく。最初の過越の祭の物語を朗読し、2杯目の杯を満たして配る。
過越の食事の前に全員が手を洗い、感謝の祈りを捧げてパンを裂く。そして塩味の水につけた苦菜を配る。クライマックスは焼いた小羊を食べる時である。続いて、3杯目の杯を配って、詩篇を朗読し、4杯目のぶどう酒を配る。

「過越の祭」『キリスト教2000年史』p.124


伝統的な祝福の祈りがささげられた後、第1の杯を飲む。そして、最年少の子どもが4つの質問をする。基本的には、「今晩は、なぜ、いつもの夜と違うのか」といった質問である。その後のセデルでは、その質問に答える形で出エジプトの物語が語られる。「私たちはエジプトで奴隷だったが、神は私たちの叫びをお聞きになり、下ってこられ、私たちを救い出してくださった」。...1時間ほどした頃、小ハレル(賛美)と呼ばれる詩篇113、114篇を歌い、第2の杯が出される。...苦菜...にハロセット...をつけたものが、1人1人に配られる。...それから、人々は手を洗う...。そして、やっとご馳走の時間が来る。...続いて、多くの楽しい歌を歌う。その中では、大ハレル(詩篇136篇)が歌われる。そして、最後に第4の杯を飲む。このとき、「あなたをさげすむ国々に、あなたの御怒りが注がれますように」という、神への祈りがささげられる。

ミシェル・ギネス「過越と最後の晩餐」『カラー新聖書ガイドブック』p.574-5より


二つの引用文は

描写の仕方が違っていますが

いわゆる配餐が

聖書朗読に挟まれている

ということは共通しています


特に

そこで選ばれたのは

共同体のルーツを振り返る御言葉

イスラエルの歩みを辿るもの

でした


儀式は

歴史の回顧と

密接に関わり合っていたのです




この伝統は

キリスト教会にも

引き継がれていきました


使徒の働き2:42からは

パン裂きには

「使徒たちの教え」が

先行していたことが見て取れますが

続く時代には、次のような形で

パン裂きは執り行われていたようです


二世紀には聖餐の儀式は二つの主要な部分によって構成されるようになった。前半は聖書の朗読とその解釈であり、これに祈りと賛美歌が加わってきた。当時のキリスト教徒が個人的に聖書の写本を所有することは不可能だったので、この前半部分は、信者が聖書について知る唯一の機会だった。そこで、聖書朗読はたいへん長い時間をかけて行われ、時には数時間にもわたった。後半部分は、平和の接吻で始まる聖餐である。接吻の後、司式者のもとにパンとぶどう酒が運ばれ、それぞれに対して祈りがささげられる。この祈りの中では、神の救いの働きが長々と回想された。それからパンとぶどう酒に対して聖霊を祈り求め、パンを裂いて分配し、共同の杯が回されて、祝福の祈りで集会が終わった。当然のことながら、聖餐儀式の内容については、各地の教会の間でも、地域を超えて共通している部分と、それぞれの地域性や状況によって異なる部分とが存在した。

「11 キリスト教徒の生活」フスト・ゴンザレス著キリスト教史 上巻』p.109-110


数時間にも及ぶ聖書朗読は

なかなかハードですが

そもそも過越もパン裂きも

神とキリストのことばによって命じられたものですので

御言葉にこそ権威があり

神こそ食事の主催者であることが示されてから

パンが配られたのは

まことにふさわしいことです




また

「平和の接吻」などによって示されているように

パン裂きが共同体の交わりを育むものだと

捉えられていたことも重要なことです


イスラエルが民の歩みの振り返りつつ過越を祝ったように

クリスチャンも、群れを形作るものとして

パン裂きを位置付けていたのです




現代においても

このことが会衆にも受け止められるような形で

パン裂きを行っていきたいものです


兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。...これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。...私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。

コリント人への手紙第一10:1-4, 10:11, 10:16-17































































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