そういう状況に直面したダービーにとって、当時の教会(国教会)は悪の権化、戦うべき対象、聖書の真理から離れた存在、堕落した存在に、見えたのだろうと思います。従って、こういった世俗化してしまった教会から分離すべし、を強く説いているようです。毒麦のたとえなどを用いながら。世俗化した教職者という毒麦を教会という麦畑の収穫から抜き取り、真の小麦のあつめるべきだ、と思ったようです。ダービーは、一種の理想主義者でもあったようです。また、これが、教会(キリスト集会)の純化志向、他者排斥的な志向性へとつながっていったのだろうと思います。…
それと同時に、ダービーは非常に神秘主義的な人物でした。… 特に、ダービー訳聖書などいくつかの聖書を、ダービーは出版しています。また、他国語でも聖書を翻訳したような博覧強記な人物だったようです。文章を書くとき、聖書のような表現を試みたということもあったようで、それが、彼の著作の神秘性を増しているように思います。
以前
ブレザレンの別の集会の方と
超教派の活動に参加することの是非について
話し合ったことがあります
彼は 他教派の方と関わりを持つことに かなり否定的でしたので
「そうはいっても、他教派の出版物は読むんでしょう?」
と尋ねてみました
すると
「いや、集会系の出版社以外の書物の読書は控えるようにと言われている」
との答えが 返ってきて
とても とても驚きました
たしかに
キリスト教書の中には
破壊的、非建徳的な内容のものもありますので
若者のために
ある程度の制限を設けることは
指導者に求められることでしょう
けれども
福音派の出版社から出ているものまで差し止めるとは…
さすがに不自然だと感じました
というのも...
彼の集っていた集会では
いのちのことば社出版の
新改訳聖書が「公認の」聖書だったからです
私たちが用いている翻訳聖書は
各教派の教え、考えから全く自由な
無色透明なものではありません
委員会訳聖書は
出来るだけ公平を期するように努めていますが
それでも、時代の潮流、流行の学説に
影響を受けます
『聖書を正しく読むために[総論]』という本には
翻訳聖書について
こんなことが記されています
「…翻訳において神のことばを読んでいるというまさにその事実が、あなたがすでに解釈に関わっていることを意味しています。そしてそれが好きかどうかに関係なくそうなのです。翻訳されたものを読むのは、もちろん、悪いことではありません。単に、利用できるのはこれだけであり、したがって必要なことなのです。しかしながら、このことはさらに次のことを意味します。すなわち、翻訳だけで聖書を読む人は、ある意味において翻訳者(たち)のなすがままになっているのであり、翻訳者たちはもとのヘブル語またはギリシヤ語の著者がほんとうは何を表現しようとしていたかに関してしばしば選択をなさなければならなかった、ということです。」
『聖書を正しく読むために[総論]』p.48より
他教派との関わりを出来るだけ断ちたいならば
まず 何よりも
信仰の土台、中心である聖書の翻訳に
取り組まなければいけません
おそらく ですが
ダービーの他者排斥的な志向と
個人訳の聖書の出版は
無縁ではなかったことでしょう
もし
ダービーの姿勢に習うなら
ダービーの取り組みを引き継がなければいけません
もちろん
そんな大層な事業に取り掛かる前に
そこまでして張り合わなくてはいけないのか
と
まず問う必要があるでしょうが...
クリスチャン人口が1%未満と言われるこの国の中で
ダービーの真似をすることは
私にな
貴重な 人材と時間と労力と資源の
無駄遣いに 思えます
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