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執筆者の写真おいまつ÷のぞむ

私を構成するもの8

更新日:2020年6月16日

未信者にキリスト教の真理や、特に少なくとも神の存在について確信させようとする試みに、なぜ反対するキリスト者がいるのか。それは、たとえそこにキリストの主張を最大限効果的に提示しようという動機があったとしても、その論拠が実際は不利益をもたらすということもありうるからである。もしその論拠が不適切であるとしたら、未信者はそれを否定する際、キリスト教のメッセージをも否定しかねない。その論拠がキリスト教を受け入れる場合の最大の根拠であると思い込むからである。聖書の啓示とは関係のない、キリスト教のメッセージを弁護する形態の一つを拒否することによって、キリスト教のメッセージそのものを拒否してしまうのではないだろうか。
有限の宇宙が存在するということから、無限の創造者が存在することを証明することはできない。証明されるのはただ、この宇宙を生み出すのに必要な力と知恵をもった創造者の存在である。確かに偉大ではあるが、有限な存在である創造者である。神は宇宙を創造したとき、できることをやり尽くして、その過程で消耗しきってしまったかもしれない。換言すれば、立証されるのは、偉大には違いないが有限であるかもしれない神の存在であり、キリスト教が提示する無限の神ではない、ということである。これがキリスト教の神であること、そしてトマスの論証の結論として導き出される神々がいずれも同じ存在であることを立証するには、さらなる議論が必要である。

ミラード・J・エリクソン著『キリスト教神学 第1巻』pp.206-7より


カントは、「何々をなすべきである」という定言命令(Kategorischer Imperativ)の存在から出発する。これは人間の単なる主観的なものではない。主観的原則である格率(Maxime)から明確に区別される不変(ママ)妥当的な法則である。もしこの定言命令が経験的な原理から導き出されるのであれば、普遍妥当性を有しない。それが普遍妥当性を持ち、絶対法則として、その拘束力を可能ならしめる条件として神の存在が実践的に要請される。つまりここでは実践理性の要請として神の存在が求められることになるのである。
この論証は神存在が”要請される”のであって、果たして論証と言い得るのかという問いが残る。この論証の場合にも、そのような存在が”あるに違いない”から”ある”への「飛躍」が役割を果たすことになる。概念から実在への「飛躍」である。しかし、たとえこの論証が成立したとしても、道徳的世界秩序を成立せしめる存在を指示しえたにすぎず、聖書の証言する人格的な三位一体の神を論証したことにはならない。

牧田吉和著『改革派教義学 2 神論』pp.27-28より




子供の頃の私にとって

「神存在の証明」は

魔法陣のようなものでした


 キリスト教がマイナーであっても

 自分自身が非力であっても

 この理論さえ 引っ張り出してくれば

 神を認めさせることができる

そんな 無敵の武器に思えたのです




小学生の高学年の時には

学校のクラスメイトに

その「威力」を

実際に 披露してみせたこともありました




当時は

 「進化論には証拠がない」

 ↓

 「進化論は非科学的」

 ↓

 「創造論が正しい」

そんな「論証」を素朴に受け入れ

「どうして、神を信じない人がこんなに多いんだろうか?」

と 不思議に思っていました







けれども

その後

「相応しい絶望」を経験したため

もはや

「神存在の証明」という名の「魔法陣」に

頼ろうとは思わなくなりました


それが

ただのイリュージョンであることに

気づいたのです




例えば...

(上にも記したように)

「進化論をやっつければ

 創造論を受け入れさせることができる!」

と 昔は 信じていましたが

よくよく考えてみると

この二つは

直接 結びつくことはありません


「創造か? 進化か?」


この二択しか選べないということが

はっきりしているならば

一方を叩いて

もう一方を持ち上げることも出来るでしょう


けれども

論理的には

これ以外の選択肢も十分に考えられるわけです


 創造されたものが進化した可能性もありますし

 世界には始まりがないという可能性もありますし

 そもそも 世界が存在しない可能性もあります


これらのパターンを

一つ一つ 検証することもなく

創造と進化の二項対立で

世界の起源を捉えようとすることは

論理の飛躍です




また

仮に

このような論理の積み重ねによって

創造の事実を「証明」しえたとしても

その業をなしたのが

聖書の語る人格神であると示すことは

決して できないのです


その論証によって立ち現れてくるのは

せいぜい

理屈と理屈で 継ぎはぎされたキメラのような存在でしょう


そんな存在を

果たして「まことの父」と

呼ぶ気になるでしょうか?







あるべき位置を はずれた「神存在の証明」は

その 努力の割に

得られるものは 多くありません


 神の介入を期待し

 御言葉に信頼して

 聖書の中心主題であるキリストを説く


その王道をバイパスして

結果だけ得ようとする者は

それ相応の代償を 支払うことになるのです


まさに

等価交換の原則ですね

(こじつけすぎでしょうか?笑)




彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

ローマ人への手紙1:21


彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

エペソ人への手紙4:18


しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

コリント人への手紙第一1:23-24


















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