サシャの父
「森を切り開き 穀物を植える方が 多くの人の腹を満たすことができるんてな… 我々一族も狩りをやめ…森を明け渡すべきなんかもしれん
王政からな… 対価を支払う代わりに…馬を育てろと言われとる」
サシャ
「えぇ! そんな…
狩りをやめたら 私達じゃなくなるやろ!?
何で私らを馬鹿にしてるヤツらのために…そんなことせんといかんの!?」
父
「そりゃなぁ… 我々は世界に生かしてもらっとるからなぁ……」
サシャ
「…? えぇ?」
父
「人間ちゅうのは群れで生きる動物なんて…違う生き方をしている人間でん 限られた環境の中じゃ 同じ群れに入って 人と関わっていかんけりゃ…」
サシャ
「いや! 嫌やって! 私達はご先祖様に生き方を教えてもらって生きてきたんやから!! よそ者に受けた恩なんか無いよ! 私達にゃ私達の生き方があるんやから 誰にもそれを邪魔できる理由は無い!」
父
「そうか… それもいいやろ 一生この森の中で自分や同族のみの価値観で生きていくんも
けどな… サシャ… それと心中する覚悟はあるんか? これから どんな危機に見舞われてん 助けを乞うてはならんとぞ? 義務を果たさん者が その恩恵を受けることができんのは 当然やからな…
私の考えはこうだ 伝統を捨ててでも一族と共に未来を生きたいと…思うとる
世界が繋がってることを受け入れなければならん」
教会で行われている事柄の中には
聖書から導き出される原則に基づく普遍的なものと
時代や文化に合わせてなされるようになった一時的なものがあります
例えば
コリント人への手紙第二13:1に記されている「口づけをもって挨拶する」ことは
一時的なものの典型例です
当時の教会においては
口づけをしないことは無礼なことでしたが
しかし
コロナ禍の日本で
この御言葉を文字通り実践しようとしたら
顰蹙を買うでしょう
それでは
現代の教会の実践の中で
何が普遍的なもので
何が一時的なもの なのでしょうか?
その区別をつけることは
それほど 簡単なことではありません
人間は最初に触れた慣習を
永遠普遍のものと思い込むものなので
十分な吟味もなされないまま 長年引き継がれてきたものが
案外 多いからです
それに
先人への恩や 親しんできたものへの愛着が
判断を 鈍らせることもあります
一時的なものが 不要なものとは限りませんので
全部を取っ払う必要はありませんが
聖書と歴史を手掛かりに
核になる部分を確認することは
どんな時でも求められるものです
特に 危機の時代 社会が大きく変化していく時代には
自分たちの実践を 厳しく評価することが 必要です
事と場合によっては
「共に未来を生きる」ために
「ご先祖様に教えてもらった生き方」や「伝統」を捨てなければいけないことも
あるからです
もちろん
多数派の都合に合わせること
体制に迎合することには抗わなくてはいけません
けれども
「自分や同族のみの価値観」と「心中」する覚悟がないならば
手放さなくてはいけないものがあるのも
厳粛な事実です
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